微炭酸発酵飲料クワスの話

ヴィターリ・ザグメンヌイ/ロシア通信

ヴィターリ・ザグメンヌイ/ロシア通信

 暑い夏、冷たく泡立ったクワスをゴクゴク飲むほど至福の時はない。ロシアの伝統的な微炭酸発酵飲料クワスには、おもしろい話がある。

国民的な飲み物 

 クワスの歴史は長く、996年の年代記に登場する。キリスト教に改宗した民衆には、ウラジーミル1世の命令に従い、「料理、蜂蜜、クワス」がふるまわれた。泡立った爽快な飲み物を、称号や地位にかかわらず、老若男女すべてが愛した。ツァーリの大邸宅、修道院、百姓家、兵舎、市場、社交界と、どこでもクワスは出てきた。クワスは囚人の食事にも必ずついてきた。

 15世紀初めまでには、甘口、酸味、ミント、レーズン入り、濃厚、クワス・シチー、香味、一晩発酵、白、オクロシカ用、ワサビ(ウラル)入り、貴族用、アロマ、キビ、トウガラシ入り、梨など、500種類以上あった。19世紀末、煮梨クワスは住民の間で一番人気があった。

伝統的なクワスづくりはなかなか手間がかかる。穀類を水にぬらして発芽させ、蒸してひき砕いて、麦芽汁をつくる。できあがりまでに2ヶ月以上かかっていた。だがその価値はあった。

 

上流階級のクワス

 庶民的な飲み物を、ロシアのツァーリも大いに気に入っていた。「銀製大杯のクワス」が、結婚披露宴でアレクセイ・ミハイロヴィチにふるまわれたことは有名。ピョートル大帝は朝からワサビ入りクワスを飲むのが好きだった。目の覚める飲み物には、独自のレシピがあった。

 アンナ・ヨアノヴナもクワスを飲んでいた一人。宮廷道化師に格下げされたミハイル・ゴリツィン公は、気どりながらアンナ・ヨアノヴナとその客人にクワスを注いでいた。同じく愛飲者だったグリゴリー・ポチョムキン公にとって、クワス・シチーは行軍や長期旅行の際のつきもので、「おいしい発酵のため」に、完成の1日前にポチョムキン公自身がレーズンを入れていた。

 

クワスで千鳥足?

 当時のクワスのアルコール度は15%に達することもあった。そのため、たくさん味見する人は「クワスニク」と呼ばれていた。動詞の「クワシチ」(発酵させる、酒を飲む)は現在でも残っており、その意味は変わっていない。

 クワスの人気は職業を生みだした。クワスニクはクワスをつくっていただけでなく、製品化していた。19世紀末、モスクワで夏の人気クワス・スポットだったのはオホトヌイ・リャド。1000人ほどの売り子が「冷たいクワスはいかがー」と言っていた。他の街でも販売競争は厳しかった。売り子はライバルに勝つために、新しい種類をどんどん考案し、独自の味で客を驚かせた。

 「オオムギの」人、「梨の」人など、通常は材料で売り子の呼び方が決まっていた。サンクトペテルブルクの通りにも売り子はおり、円筒型の帽子を頭にかぶり、クワスの入ったガラスの瓶を持っていた。クワスには特効があるとの自信から、衛生点にはあまり配慮せず、皆が同じコップでクワスを飲んでいた。

 

モスクワの通りに黄色い樽

 1930年代、モスクワの通りでは荷車を見ることができた。その隣にはエプロンをかけた売り子がいた。「バイエルンのクワス」1杯は20コペイカ(当時、学生の奨学金が平均130ルーブル)。その後、「黄色い樽」なるものが登場。これは正式な書類で「飲料品用保冷タンクローリー」と呼ばれていた。クワスはブリキ缶に入れられた。のどが渇いている人は、その場でコップを買って飲んでいた。クワス用のコップのデザインをてがけたのが、「労働者とコルホーズの女性」像のヴェラ・ムヒナだったことは興味深い。現在は大量のクワスが市場に出回っているが、多くの人は昔と同様、「樽のクワス」や家庭のレシピでつくられたクワスを好んでいる。

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