1920年代のソ連ファッション

ロシア革命直後は、国にモードなどなかったと考えるのが一般的だ。激しいテロ、飢え、戦争などでおしゃれどころではなかったはず。ところが不思議なことに、1920年代はソ連のファッション史でも有数のおしゃれな時代だった。

リーリャ・ブリーク、1924年

 革命と新しい禁欲主義的なイデオロギーが、ファッション発展の条件になった。新しい時代のシンボルとなったのは、皮革製の上着(第一次世界大戦の空軍などの皇帝軍や、チェーカーの委員のために大量に用意された皮のジャンパー)と、あごの下で結ぶ伝統的な巻き方ではなく、女性が皇帝の迫害から解放されたことを意味する、後ろに巻いた赤い三角巾。

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 また同時に、共産主義確立の魂に合う機能的な「未来の服」の制作も行われた。ソ連における1920年代の課題の一つは、「プロズオデジュドィ」と呼ばれる作業服をつくることだった。デザイナーは、外科医、パイロット、消防士、建設作業員、販売員のための、優れたユニフォームをデザイン。ソ連プラカードの第一人者である、ラトビア人芸術家のグスタフ・クルーツィスは、ランプのついたヘルメットや複雑なキーボードがついた信号ベルトとセットになった、炭坑夫の作業服を開発。服は人間の微環境と考えられ、ソ連の初期の作業着には素朴な麻布、綿布、金巾、更紗、ラシャ、フランネル、ファスチアン、粗毛などが使われた。

 デザイナーの革新的なアイデアは、徐々にファッション界に波及していった。セーターやスカーフの”芸術至上主義的”な模様への需要や、キュビズムと芸術至上主義のおしゃれなシルク製の服用として、ナデジダ・ラマノワの素描への需要が高まった。裁断はモデルのスタイル、ファスナーやポケットの構造に合わせられた。これは現代のミニマリストのアイデアに通ずるものがある。装飾をほぼなくし、形と機能性に重きを置く手法は、現在のジル・サンダーやステラ・マッカートニーのコレクションに見ることができる。このアイデアは、先進的かつ持続的であることが判明したのだ。

 デザイナーによって1924年、ファッションに派手な抽象的かつ幾何学的な模様が持ち込まれた。リュボフィ・ポポワとヴァルヴァラ・ステパノワは第一捺染工場でアバンギャルドな生地を開発し、その後生地は生産、販売された。このような1920年代に考案された幾何学的な形と生地は、多くの時間が経過した後、世界のキャットウォークに現れるようになった(例えばイヴ・サンローランの伝説的なトラピーズのワンピースなど)。

ヴァルヴァラ・ステパノワのスケッチ=Fine art images/East News撮影

 革新的だったのは素描もそうだ。コレクションのスタイルとコンセプトをつくる際に一番多く採用された。素描は想像的模索のプロセス自体の具象化であって、完成作品の下絵ではない、という意見をデザイナーは持っていた。このようなとらえ方をその後、クリスチャン・ディオールやイヴ・サンローランなどもしていくようになった。

 この時、革新的な「モード・アトリエ」(旧「新ソ連衣装形成センター」)が、国内で初のファッション雑誌「アトリエ」を創刊。論説には、創刊の主な目標と課題として、「創作的に優れ、物質的文化の分野でより注目を浴びるべき物すべてを発掘するための、精力的かつ粘り強い努力」と記されている。芸術家のユーリ・アンエンコフ、ボリス・クストジエフ、クジマ・ペトロフ・ヴォトキン、彫刻家のヴェーラ・ムヒナ、詩人のアンナ・アフマトワなどの偉大な著名人がこの雑誌との提携に合意しただけでも、この構想のスケールがわかる。

雑誌「アトリエ」

 アトリエ誌は豪華なイラストと先進的なデザイン以外にも、ヨーロッパの最新トレンドを掲載。ソ連の指導部はこれを「資本主義の遺物」と判断し、創刊号は最初で最後のアトリエ誌となった。ソ連の検閲に引っかからなかったら、今頃きっと「ヴォーグ」と「ハーパース・バザー」を足して2で割ったような雑誌になっていただろう。