「ベーリング海峡」ソ連時代の郵便スタンプ 画像提供:wikipedia.org
デンマーク生まれのロシアの海軍軍人・探険家
ヴィトゥス・ベーリング(1681~1741)はデンマークのホーセンスの生まれ。1703年に、アムステルダムの幼年学校を卒業すると、同年、ロシア軍に入る。
当時は、ロシアのピョートル1世とスウェーデンのカール12世が、バルト海の覇権をかけて戦っていた(大北方戦争)。ベーリングは、バルチック艦隊とアゾフ艦隊の一員となり、スウェーデン、トルコと戦った。
ベーリングは1713年に、ヴィボルグ(現在はレニングラード州に所属)の地元女性アンナと結婚した。最後に故国を訪れたのは1715年で、その後は帰国することはなかった。
ピョートル大帝の国策
ロシアは18世紀初めにカムチャツカを占領しており、その地理を調査して地図を作成し、通商の可能性を探ることが急務だった。ピョートル大帝は、アジアとアメリカが比較的近く、陸続きの可能性もあると考えていた。
大帝は、1725年1月に死去したが、その直前にベーリングに探検を命じ、送り出した。
最初の探検へ
ベーリングは陸路で、2年後の1727年1月にオホーツクに到達。そこで越冬して、翌1728年にカムチャツカ半島に達して、聖ガヴリール号を建造し、半島の東岸を北上する航海に出る。
カラギン湾、カラギン島、クレスタ湾、アナディル湾、聖ラヴレンチイ島などを発見しつつ、船は北上を続け、ついに、1728年8月26日、アジア大陸とアメリカ大陸の間の海峡(ベーリング海峡)を通過し、ここが陸続きでないことを確認した。
ベーリングは逆ルートで引き返し、1730年夏に、5年ぶりにサンクトペテルブルクに戻った。
ベーリングの報告
ベーリングは、探検の報告書で、カムチャツカとアメリカ大陸は比較的近いと考えられるので、通商路を開くべきであること、シベリアは鉄鉱石、塩などの資源が豊富だと思われること、小麦の栽培が可能であること、などを述べ、第二次探検の計画を示した。それは、アジア北東部、アムール河口にいたる海路、日本への航路、そしてアメリカを探検するというものだった。
1733年、ベーリングは2度目の探検に出発し、数々の発見をするが、この旅が彼の命取りになった。これについては日を改めて。
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