ミハイル・フォーキン
フォーキンは、興行師セルゲイ・ディアギレフが率いたバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)の創設者の一人であり、『火の鳥』(1910)、『バラの精』、『ペトルーシュカ』(ともに1911)などの歴史的舞台を振り付け、ダンサー、ヴァーツラフ・ニジンスキーの天才を開花させた。アンナ・パヴロワの『瀕死の白鳥』の振付でも有名だ。
ミハイルは、1880年にサンクトペテルブルクの商家に生まれた。母のエカテリーナは、大の劇場ファンで、舞台に立つことを夢見ていたが、果たせず、自分の夢を、均整のとれた美少年に育った息子に託した。だが父親は、「ダンサーは男児の仕事に非ず」と反対した。
1889年、母はこっそり息子に帝室舞踏学校を受験させ、めでたく合格したので、父親も折れる。1898年に同校を卒業すると、直ちにソリストになる。
舞踏、音楽、造形芸術を融合すべし
ミハイルは、絵画、音楽にも強い関心を抱き、ピアノ、バイオリン、バラライカを習得し、民族楽器アンサンブルで演奏するほどの腕前だった。
彼は早くから、バレエは、舞踏、音楽、造形芸術を融合させた総合芸術であるべきだと考えており、やがて知り合った美術家アレクサンドル・ベノワの後押しを得て、自分のコンセプトでバレエを振り付け、注目を浴びるようになった。彼のファンの中には天才的興行師のセルゲイ・ディアギレフもいた。
同志を見出したディアギレフは、フォーキンをバレエ・リュスの振付師として招き、フォーキンも受諾する。
ディアギレフとの決裂
その後数年間の活躍は、世界の芸術史上に残る目覚しいものだったが、ディアギレフとフォーキンは、芸術観などをめぐって徐々に対立するようになり、1912年に、ディアギレフがお気に入りのニジンスキーに『牧神の午後』の振付をゆだねたのが、決裂のきっかけとなった。
このときフォーキンは、ラヴェルの音楽による『ダフニスとクロエ』を振り付けていたが、ディアギレフは、その開演時間を、観客に知らせずに、わざと30分繰り上げるという露骨な嫌がらせをした。
フォーキンは、その後1914年に、一時バレエ・リュスに復帰するが、大きな成功を収めることはできなかった。
革命後はアメリカに定住して、バレエ学校を開き、「フォーキン・バレエ」を結成し、後進の教育に携わるかたわら、振付を行う。振り付けた作品は、生涯で約70作品に及ぶ。
ロシア・ビヨンドのニュースレター
の配信を申し込む
今週のベストストーリーを直接受信します。