1904年夏、青島に逃れた太平洋艦隊の旗艦ツェサレーヴィチ。
バルチック艦隊が回航される前に
1904年8月当時、ロシア太平洋艦隊は、守りの固い旅順港を出ずに戦力を温存する方針だったが、日本陸軍第三軍が旅順要塞の攻撃を開始し、日本海軍陸戦重砲隊が大孤山に観測所を設けて照準を定め、旅順港内の艦船を砲撃した。
その結果、ロシアの戦艦2隻が損傷を受け、ロシア太平洋艦隊司令官代行のヴィトゲフト自身も負傷した。ヴィトゲフトは、このまま旅順港にいては危険と判断し、艦隊を旅順港からウラジオストクへ回航することに決めた。
日本側としては、バルチック艦隊が極東に回航されてくると、艦船の数で著しく不利になるので、それ以前に、露太平洋艦隊を旅順港から引っぱり出して壊滅させる必要があった。
海戦の経過と影響
連合艦隊は、12時30分に、旅順の西南23カイリ付近で、露太平洋艦隊を発見する。距離7000メートルまで近づいたところで、丁字戦法を実行しようとしたが、いったん逃げられてしまう。
再び追いついて攻撃再開したのは17時30分。露艦隊は、旗艦の戦艦「ツェサレーヴィチ」をはじめとして大きな損傷を受け、ヴィトゲフト司令官代行も戦死したが、大部分が旅順港などへの逃走に成功する。
だが、旅順では艦船の修理を行うことができず、結果として、露太平洋艦隊は、艦隊としての戦闘能力を著しく失ったため、やむなく艦載砲を外して陸上要塞に回し、乗組員を陸戦部隊として配備するにいたる。しかし、日本側はこのことを知らず、旅順要塞攻略を急ぐことになる。
参謀・秋山真之が得た教訓
黄海海戦は、日本側の勝利に帰したが、丁字作戦は失敗した。参謀・秋山真之は、ここでの教訓から、「敵艦隊の先頭を我が艦隊が押さえなければ、逃げる敵との砲撃戦は成立しない」との結論を得て、日本海海戦で生かすことになる。
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