画家イリヤ・レーピン生まれる

『帝国枢密院設立100周年記念の儀礼』 ロシア美術館

『帝国枢密院設立100周年記念の儀礼』 ロシア美術館

1844年の今日、8月5日(ユリウス暦7月24日)に、19世紀後半から20世紀初頭にかけてのロシアを代表する画家の一人、イリヤ・レーピンが生まれた。

 イリヤ・レーピン(1844~1930)は、ウクライナのハリコフ近郊で生まれた。両親はロシア人入植者(屯田兵)で、レーピン自身によると、モスクワの銃兵の末裔だという。1855年から印刷工の学校で学び、1857年から絵画の勉強も始める。15歳の頃には、地元では名の知れた画家になっていた。

 1863年、教会のイコンを描いて得たお金で、サンクトペテルブルクへ行き、後に移動展派の指導者となるイワン・クラムスコイと知り合い、教えを受けるようになる。

 64年に、ロシア帝国美術アカデミーに入学。68年、ネヴァ川で船曳きを初めて目にする。

 70年に、ウラジーミル・アレクサンドロヴォチ大公(アレクサンドル2世の3男)から、絵画『ヴォルガの舟曳き』の注文を受け、73年に完成。この作品で名声を確立する。

 

多様性、アクチュアリティーととりとめのなさ 

 船曳の重労働を描いた『ヴォルガの舟曳き』は、いかにも”絵画のナロードニキ”である移動展派にふさわしい絵だった。レーピンにはほかにも、『待っていなかった』(1888)など、下層階級や革命家を描いた作品がたくさんある。

 しかし、移動展派の多くがそうであったように、必ずしも社会的な絵ばかり描いたわけではない。農民からインテリ、貴顕、皇帝アレクサンドル3世にいたるまでの多数の肖像画、『サドコ』(1876)のような幻想とリアリズムが入り混じった作品、『イワン雷帝と皇子イワン』(1885)、『トルコのスルタンへ手紙を書くザポロージュ・コサックたち』(1891)などの歴史絵巻と、題材は多種多様だった。手法的にも、いちはやく印象派のそれを取り入れている。

 だが、その一方で、彼の多様な世界は、ある種のとりとめのない印象も与えるようにも思われる。たとえば、『待っていなかった』(1888)は、政治犯が流刑地から戻った瞬間を描いているが、家族の一様でない反応は、どういう思想傾向の人間が見ても、自分の思いを投影できる余地があるようだ。

 ソ連時代にはこの絵は、社会主義リアリズムを体現するものとされたが、人によっては、アブナイ思想にかぶれた夫が帰ってきて迷惑がっているようにも見えるかもしれない。

 

トルストイのレーピン評 

 レーピンは、作家レフ・トルストイとも親しく、肖像画を何点か残している。そのトルストイは、論文『芸術とは何か』に、レーピンといっしょに彼の大作『クルスク県の復活大祭の十字行』(1883)を見たときのことを書いている。

 それによると、トルストイは、なるほどこの絵は立派に描かれてはいるが、描かれている事柄に対する画家の態度が不明だと思った。そこでレーピンに、「あなたは、こういうこと(十字行)をやるのが良いことだと思っているんですか、それとも良くないことだと・・・」と尋ねると、「『いや、どちらでもないですよ』と、この善悪の判断を超越した偉大な芸術家は笑って答えた」という。

 トルストイの思想は別としても、レーピンの絵を一渡り見て、この人、結局何を言いたいんだろう、という疑問を覚える人は結構いるのではないか。レーピンは、時代に少し先んじて、アクチュアルなテーマの絵を描き、好評を博し続けたが、その全体像の評価はこれからの課題だろう。