海軍士官ワシーリー・ゴロヴニン
事件の背景
ロシアは、東方拡張とともに、日本に通商を求めてくるようになる。
1792年には、アダム・ラクスマンが、日本の漂流民の大黒屋光太夫とともに来日し、1804年には、ロシアの国策会社「露米会社」の創設者ニコライ・レザノフが、やはり漂流民の津太夫を同伴して来訪した。
鎖国政策をとる日本は通商を拒否したが、1807年には、レザノフが、サハリン(樺太)、択捉などで、日本の番所を襲撃し、また翌1808年には、長崎でフェートン号事件が起きて、政府は緊張する。
高田屋嘉兵衛とリコルドの協力で解放
ディアナ号のピョートル・リコルド副艦長は、いったんロシアに帰国し、日本人漂流民をともなって、翌1812年に再来日し、漂流民とゴロヴニンの交換を申し出た。
日本側に拒絶されたリコルドは、報復措置として、函館の廻船商人・高田屋嘉兵衛を捕え、ディアナ号で、カムチャツカ半島のペトロパヴロフスク・カムチャツキーに連行する。
嘉兵衛とリコルドは同じ部屋で寝起きし、「二人だけの言葉をつくって」交渉する。
嘉兵衛はリコルドに、ロシア人による襲撃事件は、ロシア政府が許可も関知もしていないという証明書を日本側に提出することを提案する。
リコルドはその言葉を聞き入れて、高田屋ともに日本に戻り、彼を釈放。
高田屋もまた、松前奉行に、ロシア側に侵略の意図なしと納得させ、ついに二人の協力で、ゴロヴニンは釈放された。
江戸時代の日露文化交流
ゴロヴニンが獄中にあったとき、詩人デルジャーヴィンの「神」など、ロシアの詩を日本人に紹介したことは、7月14日の「今日は何の日」で述べた。
帰国したゴローニンは『日本幽囚記』(1816)を執筆し、日本語をふくむ各国語に翻訳される。日本で、この優れた見聞記をオランダ語から重訳したのは、馬場佐十郎ら。馬場は、デルジャーヴィンの「神」を漢詩風に訳した人物だ。
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