詩人エフトゥシェンコ生まれる

エフゲニー・エフトゥシェンコ氏(右)とアメリカの第37代大統領 リチャード・ニクソン氏 写真提供:wikipedia.org

エフゲニー・エフトゥシェンコ氏(右)とアメリカの第37代大統領 リチャード・ニクソン氏 写真提供:wikipedia.org

1933年の今日、7月18日に、詩人エフゲニー・エフトゥシェンコが生まれた。1956年のスターリン批判後のいわゆる「雪どけ」で現れた若手詩人の旗手だった。

 エフゲニー・エフトゥシェンコは、イルクーツク州の生まれ。バルトのドイツ人である父アレクサンドルは地質学者で、趣味で詩作をしていた。母ジナイーダは、地質学者で女優。ロシア連邦功労文化活動家の称号をもつ多才な女性だった。

 早熟なエフトゥシェンコは、1949年から詩を発表し始め、1952~1957年にゴーリキー記念文芸大学で学ぶ。52年に処女詩集「未来の偵察兵」を刊行し、同年、ソ連作家同盟の一員となる。最年少のメンバーだった。

 

「雪どけ」の旗手 

 「雪どけ」とともに、ヴォスネセンスキー、アフマドゥーリナ、アクショーノフ、オクジャワなどの詩人、作家が輩出したが、エフトゥシェンコは、「バービー・ヤール」(1961)、「スターリンの後継者たち」などの問題作で世界的に話題を呼ぶ。

 1963年にはフランスで「早すぎる自叙伝」を刊行した(工藤幸雄による邦訳が新潮社から出ている)。

 

「バービー・ヤール」 

 代表作の一つ「バービー・ヤール」は、1941年のキエフ郊外での、ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺を告発したもの。

 作曲家ショスタコーヴィチは、早くも詩の発表の翌年に、これを歌詞として、交響曲13番「バービー・ヤール」(1962)を作曲した。

 最後に「バービー・ヤール」の一節を引いておこう。

 

私は思う、自分はアンネ・フランクだと、
四月の小枝のように透きとおったアンネだと。
<・・・>
木の葉に触れることも許されない
空を見ることも許されない。
でも、できることはたくさんある
それは暗い部屋で優しく抱き合うこと。

「こっちへ来るの?」


「怖がらないで、あれは春のどよめき、

春がここへ来るのさ。
そばにおいで、早く口付けを。」

「ドアを壊しているの?」

「いや、あれは春の流氷…」

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