写真提供:ロシア通信
コサックの歴史は15世紀からとされているが、「コサックが何年に始まった」と明確に言うことはできない。歴史文書でコサックという名前での言及が盛んに始まるのは15世紀だ。
辺境で自治体を形成
「コサック」という語は、チュルク諸語で「自由人、冒険探求家、放浪者」の意味をもつ。
第一に、封建君主の抑圧からの逃亡、飢饉、旱魃(かんばつ)、 病気、古儀式派への迫害、その他の不幸のため、行動的でエネルギッシュな人々は、よりよい運命を求めて、ルーシ(ロシア)全土から、東ヨーロッパの荒涼た るステップ国境地帯の事実上「誰の所有地でもない」土地である、ドニエプル川、ドン川、テレク川、ボルガ川、ウラル川下流地帯へと、向わねばならかった。これら大河の沿岸には、何千ものコサック自治共同体が形成されており、それらは常に近隣国家や近隣種族と戦闘状態だった。
コサックのアイデンティティーは
血筋から見てコサックとは何者だったのか。現代の研究者らは、コサックには、東スラブ人であるロシア人のほか、チュルク系民族もカフカス (コーカサス)系民族も加わっていると考えるようだ。今日でも、頭髪や目の黒いコサックの子孫をよく見かける。
コサックは、コサック同士で話すときはいつ も、個々の単語を除けばロシアの他の住民にもわかるロシア語方言で話す。コサックは、階層的(つまりコサックという)、宗教的(正教徒)アイデンティティーははっきりしていたが、特別な民族的共通性は皆無だった。
コサックの管轄地では、コサック独自の民主制である内部の掟があった。コサックは仲間の中から自分たちの司令官を選出したが、それは戦いに出る時だけのもので、それ以外の時は、すべてのコサックは平等だった。
しかし、17~18世紀のツァーリ権力は絶えずコサックを弾圧し、事ある毎に彼ら「自由な民」を規制しようとし、それは当然の激しい反撃を呼び起した。
『トルコのスルタンへ手紙を書くザポロージャ・コサック』(1880年 – 1891年)、 イリヤ・レーピン。
東方の風
そうした複雑な関係ではあったが、コサックとの仲が平穏な時は、ツァーリ権力はコサックを積極的に国家の領土拡張に利用した。ウラル、シベリア、極東への 遠征とその開発、すなわちロシア帝国の形成にとってのコサックの役割は、いくら評価してもしすぎることはない。
イルクーツク、ハバロフスク、オムスク、トムスク、ヤクーツク、ブラゴベシチェンスク、ペトロパブロフスク=カムチャツキーなど、今日のロシアの州都や自治共和国首都を含めて、現代のウラル、シベ リア、極東の多くの都市はまさにコサックによって開発された。
コサックは太平洋に到達したが、それに留まらず、1648年にはコサックのデジニョフがアジア側からアメリカを発見し、それがロシアのアラスカ進出につながった。
自然の厳しさのために(何しろコサックは幼時から兵士として育てられてきたのだ)、コサックは現地住民に対する態度が荒っぽく、時には残酷であったという事 実も見落としてはならない。しかし植民地でのロシア人と原住民の平和共存の基礎を作ったのも、まさしくコサックだった。コサックは、西欧が西欧以外の世界の各地の開発に際して行ったような、原住民殲滅などは、決して行うことはなかった。
エリート階層
19世紀はコサックのまさに絶頂期になった。アタマン(首領の称号)マトベイ・プラートフのドン・コサックは、無敵のロシア軍と共同でナポレオン軍を完膚なく打ち砕き、パリを占領し、ヨーロッパと世界に新しい豪放無敵の最強騎士像を知らしめた。コサックは、ロシア国内でニコライ1世の治世に蜂起を鎮圧しただけでなく、1848年にはハンガリー反乱軍から隣国ハプスブルグ朝を救った。1878年にはコサックはロシア軍と共同でオスマン帝国を破り、ブルガリア、 セルビア、ルーマニアなど、バルカン諸国を最終的に解放する。
コサックは、民衆運動の抑圧に加わり、日露戦争や第一次世界大戦の前線で勇敢に戦い、1918年にはコサックの地で流血の国内戦という恐怖のドラマが演じられた。だが、20世紀におけるコサックの波乱万丈の歴史は、別個に語るに値する。
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