ザクセン大公妃マリア・パヴロヴナ
パーヴェル1世の娘、アレクサンドル1世の妹
マリア・パヴロヴナ(1786~1859)は、女帝エカテリーナ2世の孫で、暗殺されたパーヴェル1世の娘である。アレクサンドル1世の妹に当たる。
子供の頃は、男の子の遊びが大好きで、大変活発だった。祖母のエカテリーナ2世は、「男の子に生まれれば良かったのに。竜騎兵なんかぴったりだよ」と言っていた。マリアは、軍隊マニアであった父の大のお気に入りであった。
マリアは幼時に天然痘にかかってしまう。幸い回復したが、あばたが残った。エカテリーナ2世は手紙で嘆いている。
「私の3番目の孫娘はすっかり面変わりしてしまいました。前は天使のように可愛かったのに・・・」。
天然痘にめげず
しかし、マリアは聡明で魅力的な少女に育っていく。祖母は1795年にこう書いている。
「サルティ(マリアに音楽を教えたイタリアの作曲家ジュゼッペ・サルティ)は、孫娘にはすばらしい音楽の才能があると言ってくれています。とても頭が良くて、何にでも才能を発揮します。聡明な女性に育つでしょう。読書が好きで、何時間でも本を読んでいます。とても陽気で生き生きしていて、まるで天使のように踊るのです」。
1800年、マリアが14歳になったときに、ザクセン=ヴァイマール=アイゼナハ大公国の世子カール・フリードリヒとの縁談が持ち上がった。彼は1803年にロシアを訪れ、1年ほど滞在したので、その間にふたりはお互いをよく知る機会を得た。1804年7月23日にサンクトペテルブルクで結婚式を挙げ、ヴァイマールに向う。
シラーが遺作で歓迎
ヴァイマールといえば、かつてはJ.S.バッハが宮廷音楽家を務め、当時は、ゲーテ、シラー、ヘルダー、ヴィーラントらが活動しており、その意味では、マリアにはうってつけであった。
シラーはマリアを歓迎するため、小さな戯曲を執筆し、1804年11月12日に、宮廷歌劇場で上演する。この戯曲は、村人たちが、この土地にないダイダイの樹を植えるというもので、マリアがこの土地になじみ、根を生やすように、というメッセージが込められていた。
異国の樹よ
私たちが植えた
成長せよ、根を生やせ
わがふるさとの土に!
マリアはシラーたちの心づかいに感動し、涙したという。シラーはまもなく死去し、この小品が遺作となった。
ヴァイマールの文化の庇護者として
結婚後は、様々な分野の優れた学者を招いて勉強に励んだ。夫が1828年に即位すると、マリアは学芸の庇護者をもって任じた。
イェーナ大学の学科を拡充し、同大学に地理学、博物学の泰斗アレクサンダー・フンボルトを招聘し、ゲーテ、シラー、ヘルダー、ヴィーラントを記念するユニークな博物館を建て、大ピアニストで作曲家のフランツ・リストを招いた。
1850年には、リスト指揮で、リヒャルト・ワーグナーの楽劇「ローエングリーン」の上演を行っている。
1848年のドレスデン革命に参加したワーグナーは当時お尋ね者であったから、リストとしてもヴァイマール宮廷としても思い切った判断だった。58年まで9年間にわたり亡命生活を送ることになるワーグナーには大きな支援となった。
高齢をおして甥の戴冠式に
1855年、弟のロシア皇帝ニコライ1世が、クリミア戦争の敗戦後、失意のうちに亡くなり、アレクサンドル2世が即位すると、マリアは高齢をおして、戴冠式に出席するためロシアへ赴いた。これが彼女の最後の訪露となった。
1859年6月23日、ヴァイマール近郊で死去。
マリアには4人の子があり、次女アウグスタは、後のドイツ皇帝ヴィルヘルム1世と結婚する。
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