ロック歌手ヴィクトル・ツォイ生まれる

ヴィクトル・ツォイ、1986年=イゴリ・ムーヒン撮影

ヴィクトル・ツォイ、1986年=イゴリ・ムーヒン撮影

1962年6月21日の今日、ロック歌手ヴィクトル・ツォイがレニングラード(現サンクトペテルブルク)の教師の家庭に生まれる。彼は、連邦崩壊前後に価値観を喪失した、失われた世代の代弁者だった。1990年に、28歳の若さで交通事故死したが、そのメッセージは若者の心を捉え続けている

 ツォイは、15歳で美術学校を卒業すると、マクシム・パシコフらとともに、グループ「6号室」を創る。ちなみに、『6号室』というのは、作家アントン・チェーホフの名作で、繊細で心優しい精神科医が発狂していく過程を描いている。

 少年時代のツォイのアイドルは、歌手兼俳優のウラジーミル・ヴィソツキーや、ブルース・リーで、東洋の武術に熱中していた。

 

「太陽という名の星」、「一箱のタバコ」・・・ 

 ツォイは、70年代末からアレクセイ・ルイビンと親しくなり、「自動的な満足」なる皮肉な名前のパンクグループを結成する。

 彼らは度々モスクワに出かけてアングラで演奏するようになるが、あるとき電車の中で、ロシア・ロックの元祖ボリス・グレンベンシコーフと出会う。

 81年夏には、レニングラードのロック仲間に迎えられ、まもなくグループは「キノー」と名前を改めた。ペレストロイカ期に入ると、ようやく公にコンサートを行えるようになる。

 「キノー」は8枚のアルバムを作るが、いずれも空前のヒットとなる。そのなかには、「太陽という名の星」、「一箱のタバコ」など、ロシア人なら知らぬものはない曲が含まれている。

 

暗殺説も 

 1990年6月、モスクワのオリンピック・スタジアム「ルジニキ」で最後のコンサートを行ったあと、8月15日にラトビアの首都リガ近郊で、車(モスクヴィッチ)を運転中に事故死する。

 公式の説明は、彼が居眠り運転をして、対向車線に飛び出し、バスと衝突したというものだが、事故直後は、その激しい体制批判とニヒリズムゆえに、暗殺説が飛び交った。

 

激しさと深い叙情 

 彼の歌は、その激しさと裏腹に、とても静かな印象を与える。自分をクールに見つめる眼差しが感じられ、底に深い叙情が流れているからだ。

 

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 二時間後には花が咲き草が茂る

 ・・・

「太陽という名の星」(1988)

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