皇太子時代のアレクサンドル2世がシベリア入り

皇太子時代のアレクサンドル2世 画像提供:wikipedia.org

皇太子時代のアレクサンドル2世 画像提供:wikipedia.org

1837年の今日、6月13日(ユリウス暦6月1日)に、皇太子アレクサンドル・ニコラエヴィチ(後の皇帝アレクサンドル2世)が、欧亜間の境界を超え、シベリアに入った。2日後の15日には、この“アジア旅行”の目的地トボリスクに達し、引き返す。さて、この旅行の理由は・・・

 アレクサンドル2世(1818~1881)は、少年時代から大変なドン・ファンであった。14歳での宮廷女官との恋愛から始まって、しょっちゅう情事を繰り返すので、その方面では人後に落ちなかった父ニコライ1世も、「覚えておけ、我々に許されているのはサロンのアバンチュールだけだ」と“説教”するほどであった。

 

愛の巣から追放 

 問題は、アレクサンドルがアバンチュールの域を超えて、間々真剣になりすぎることで、ニコライ1世と皇后アレクサンドラは相談し、ちょうど息子の教育が終わったのを機会に、全国を旅行させることにした(といっても、ヨーロッパ・ロシアとシベリアの一部だけだが)。

 こうして、当時の恋人、女官オリガは、ポーランドのオギンスキー伯爵に嫁がされて、まもなく男児を出産し、アレクサンドルのほうは7ヶ月かけて、将来自分が治めることになる帝国を回る。

 

48歳のツァーリと女学生の真面目な恋愛

 アレクサンドル2世は、1856年の即位後、農奴解放、地方自治体(ゼムストヴォ)創設を初めとする数々の改革を行ったが、81年に、「人民の意志」党に爆殺される。

彼の“性癖”のほうは、生涯治らなかった。

 1866年、48歳のツァーリは、スモーリヌイ女学院の生徒だったエカテリーナ・ドルゴルーカヤ(没落した名門貴族の娘)に真剣に惚れこみ、“円満な家庭”を築く。次々に4人の子供が生まれ、完全な二重生活となる。

 

暗殺に微妙に影響 

 1880年に皇后が寂しく死ぬと、皇帝はエカテリーナと貴賎結婚をするにいたる。これはロマノフ家の多くの猛反発を買った。これに、皇帝の改革路線への反感が結びつく。

 こうした状況は、彼の暗殺に微妙に影響している可能性がある。

 作家エドワード・ラジンスキーが『アレクサンドルⅡ世暗殺』で指摘しているように、当局が、テロリストたちをマークしながらも、変な泳がせ方をしていたからだ。つまり、暗殺計画を察知しながら、なぜか警戒、逮捕を怠るという奇妙な状況が重なり、結局、爆殺にいたっているのである・・・。