《銃兵処刑の朝》(1881)、ワシーリー・スリコフ
黒幕の皇女ソフィア
1682年に、ソフィア・アレクセーエヴナの同母弟であるツァーリ、フョードル3世が、20歳の若さで後継者を指名せずに亡くなった。
すると、ソフィアの異母弟ピョートル(後の大帝で当時10歳)が、その母の実家であるナルイシキン派に擁立され、ツァーリに即位した。
これに対して、ソフィアは、大貴族ミロスラフスキー家と組んで、同母弟イワンをかつぎ、銃兵隊を扇動して反乱を起こさせ、ナルイシキン派を失脚させるのに成功する。
銃兵隊はかねてより、給料の遅配や指揮官の汚職などに強い不満を抱いていた。そこへ、ソフィアらは、ナルイシキン派がイワンを殺害し、銃兵隊をさらに締め付けようとしているとデマを流したわけだ。
非情なホヴァーンシチナ
5月25日(15日)、クレムリンに乱入した銃兵隊は、3日間にわたり殺戮、略奪をほしいままにし、ナルイシキン派の数十人を殺した。
反乱の実行者イワン・ホヴァーンスキー公は銃兵隊長官に就任し、ピョートルはイワンの共同統治者に格下げされて、2帝並立となり、ソフィアが摂政として実権を握る体制が確立された。
ソフィアは今度は、反乱成功で勢力を拡大した銃兵隊の始末を画策し始める。銃兵隊は、長官のホヴァーンスキー公以下、古儀式派(分離派)の支持者が多かった。ソフィアは、古儀式派への弾圧を強めることで、銃兵隊の力をそぎにかかる。そして早くも同年9月には、ホヴァーンスキー公と息子のアンドレイの謀殺に成功する。
1682年の銃兵隊反乱以後の政情不安は、「ホヴァーンシチナ」と呼ばれている。これは作曲家ムソルグスキーの名作オペラの題名にもなっている。
ロシア初の常備軍「銃兵隊」とは
イワン4世(1530~1584)は、16世紀ヨーロッパで、絶対君主制が発展し、列強の力関係が激変するなかで、貴族層の権力抑制と自らの専制を目指し、一連の改革を行った(これは、治世後半には、粛清と恐怖政治という弊害も生んだ)。ロシア初の常備軍である銃兵隊(ストレリツイ)の創設もその一つだった。
これは、当時しばしばロシア領に侵入していたタタールなど外敵に備えたもので、ツァーリ直属の近衛軍だ。主な装備は、火縄式またはフリントロック式マスケット銃だった(フリント=火打石)。
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