詩人ヨシフ・ブロツキーが生まれる

ヨシフ・ブロツキー=タス通信撮影

ヨシフ・ブロツキー=タス通信撮影

1940年の今日、5月24日に、詩人ヨシフ・ブロツキーがレニングラードに生まれた。

 独裁者に因み命名 

 ヨシフ・ブロツキー(1940~1996)は、1940年5月24日に写真家の家庭に生まれ、レニングラード封鎖を経験している。

 名前のヨシフは、独裁者ヨシフ・スターリンに因んだもの。のちに「寄食者」、ソビエト市民失格の烙印を押されることになる彼には皮肉な命名となった。

 詩を書きはじめたのは16歳のころで、きっかけの1つは、ボリス・スルツキーの詩集を読んだこと。ブロツキーの詩を読んだ女流詩人アンナ・アフマートワは、彼を励ますとともに、その文学的栄光と困難な生涯を予言した。

 

 ゴミ捨て場で本漁り 

 ブロツキーはさまざまな職業を転々としながら、独学で英語とポーランド語を学び、古典文学、哲学、宗教、神話など幅広い教養を見につけた。のちに彼は、ゴミ捨て場で本漁りまでした、と回想している。

 とりわけ、1960年代初めに出会った、イギリスの“形而上詩人”ジョン・ダン(1572~1631)は、彼をインスパイアした。ブロツキーのいわゆる形而上的かつ古典的で、なおかつ極めてラディカルでもある作風は、こうして徐々に形作られていった。

 1963年11月29日、「夕刊レニングラード」紙に、ブロツキーの詩を槍玉に挙げる公開書簡「文学周辺の寄食者」が掲載された。

 翌1964年には、実際に「寄食者」として告発、逮捕され、アルハンゲリスク州へ流刑5年の判決を受け、同州のノリンスカヤ村で服役する。

 しかし、詩人アフマートワ、作曲家ショスタコーヴィチ、児童作家マルシャーク、詩人エフゲニー・エフトゥシェンコなどの抗議もあって、18ヶ月間服役した後に釈放され、65年にレニングラードに戻る。彼の作品の多くは地下出版で広まっていくことになる。

 

 72年国外追放、米国移住、ノーベル文学賞 

 72年に国外追放処分を受けた際、ブロツキーはブレジネフ書記長に直接書簡を送り、市民権を剥奪しないよう請願したが、無視された。

 

 ブロツキーは、ウィーン、ヴェネツィアを経由して、アメリカに移住し、ミシガン大学で教鞭を執り、その後、コロンビア大学、イギリスのケンブリッジ大学などに客員教授として招聘されている。

 1987年10月22日、ノーベル文学賞を受賞する。またアメリカの桂冠詩人にも選ばれている。

 1996年、ブロツキーは、55歳の若さで、心筋梗塞のためニューヨークで亡くなり、ヴェネツィアに葬られた。

 

 真に普遍的な人間 

 ブロツキーの詩は、世界文学の深い教養にささえられており、人間の生と死などの普遍的テーマを扱っている。一例を挙げておこう。

 

  母がキリストに言う

  「お前は私の息子か、それとも

  私の神か? 十字架に磔になったお前を置いて

  どうして家に帰れようか?」

 

  お前は私の息子か神か

  つまり、死んでいるのか生きているのか

  理解せずに、答えを出さずに

  どうして家の敷居をまたげよう

 

  彼は答えて言う

  「死んでいようと、生きていようと

  女よ、違いはないのだ

  息子であろうと神であろうと、私はお前のもの」

 

  「静物」(沼野充義訳)