ソ連のポスター
ロシア革命後の内戦に際しては、ソビエト政権は、戦時共産主義を実施して、農村から穀物を強制的に挑発したが、これによって農民は政権への不満、さらには敵対的な気分をつのらせた。
ネップ
内戦での勝利が確実になると、レーニンは、ニコライ・ブハーリンなど右派の理論にもとづき、一部資本主義的な「ネップ」(新経済政策)を行うが、新たな資本家「ネップマン」や富農(クラーク)を生み出し、貧富の差が拡大した。
その一方で、穀物の供給量は、農民の売り惜しみなどで、期待ほど伸びなかった。
また、ネップである程度の経済成長が見られたとはいえ、工業化の水準は、英仏などの先進国には遠く及ばず、これは国際的に孤立しているソ連にとっては憂慮すべき事態であった。
右か左か
ブハーリンら右派は、農民にさらに自由を与えて、農村の繁栄の上に工業化を実現することを主張し、トロツキーら左派は、そのような方法では工業化は極めて緩慢なものとなり、長期にわたり資本主義国の工業製品に依存せざるを得なくなると反対した。
だが、急激な工業化のためには、巨額の投資が必要であり、外資が導入できない以上、国民をさらに収奪することになる理屈であった。
ここに、工業化(五カ年計画)が農業集団化とセットで行われた理由がある。
スターリンは、初め中間的なポーズをとりつつ、左右両派を粛清し、実権を握ると、自分が弾圧した当の左派の方針を実施していく。
悲劇と裏腹
第一次、第二次五カ年計画の結果、ソ連は巨大な工業国に一変し、ちょうどその頃、1929年に発生した世界恐慌の影響も受けなかったので、資本主義国は驚嘆した。
だが、工業化の成功は、集団化による富農の弾圧、大量の餓死者、労働キャンプでの数百万におよぶ人々の強制労働と裏腹であった。
「少しテンポを遅らせてはいけないか、という質問をときどき受ける。・・・われわれは先進国に比べて50年あるいは100年遅れている。我々は10年間でこの遅れを取り戻さなければならない。我々がそれを達成するか、それとも我々が押しつぶされるか、どちらかである」。
こうスターリン自身は1931年に演説しているが・・・。
ロシア・ビヨンドのニュースレター
の配信を申し込む
今週のベストストーリーを直接受信します。