レーピンによる肖像画
トボリスク県(現在のチュメニ州)に、実業家イワン・マモントフの第4子として生まれる。母マリアは早くに亡くなった(52年)。58年から定期的に劇場に通い始め、感想を日記に記している。
少年時代から凝り性で芸術好き
ギムナジウムで学んでいた当時から、夢中になると素晴らしい結果を出すが、気が乗らないとさっぱり、という傾向が現れている。例えば、同じ外国語でも、ドイツ語は5点だったが、ラテン語は2で、危うく落第というところを、代わりの人間に追試を受けさせて何とか卒業し、ペテルブルク大学に進む。1860年のことだ。後にモスクワ大学に転校する。
当時ロシアは、アレクサンドル2世のもとで改革が進み、鉄道建設が加速されていた。サッヴァの父も、鉄道事業に携わっていた。
しかし、サッヴァは、商売には全然気乗りがせず、64年にはイタリアへ旅行し、声楽を学び始める。同地で、モスクワ出身の大商人グリゴリー・サポジュニコフの17歳の娘、エリザヴェータと知り合い、翌65年に結婚。エリザヴェータは美貌ではなかったといわれるが、読書と音楽がたいへん好きだった。
アブラムツェヴォに芸術家村を創設
69年に父イワンが亡くなり、跡継ぎとして否応なしに事業に巻き込まれると、それまで眠っていたビジネス・マインドが目覚める。
1869年にモスクワ・ヤロスラヴリを結ぶ鉄道の総裁に就任し、ドネツク鉄道の開通にも関わる。
これと前後して1870年に、モスクワの北に位置するアブラムツェヴォの別荘を購入する。これはスラヴ派の論客であったアクサーコフ家の領地だった。
サッヴァはここに、画家や彫刻家を集めて、芸術家村を創る。その顔ぶれは、ネステロフ、レーピン、ポレーノフ、セローフ、ヴルーベリ、ヴァスネツォフ兄弟といった錚々たる面々。この美術家集団が展開したのは一種の民芸運動だが、アールヌーヴォー的な要素もあり、当時の芸術運動をリードした。中心となったのは、ヴィクトル・ヴァスネツォフとヴルーベリである。彼らは農民の子弟の啓蒙活動も行った。
サッヴァはまた、音楽界のパトロンにもなり、「ロシア私設歌劇場」を開いてチャイコフスキー、ムソルグスキー、リムスキー=コルサコフ、ボロディンらの作曲家を援助した。ここから偉大な声楽家フョードル・シャリアピンが巣立っている。また、交響曲1番の初演失敗でノイローゼになっていた作曲家ラフマニノフに指揮をさせ、立ち直りのきっかけを与えた。
これらの画家、美術家、音楽家は協力して、ロシア民話によるオペラ(たとえばリムスキー=コルサコフの歌劇「雪娘」)や演劇を上演した。
昨日の友は今日の敵
しかし、99年ごろには、芸術活動への出費がどんどんかさみ、また無理に事業を拡大しようとしたことから(交通機関と各種産業を統合する大企業を創設しようとした)、資産は傾き、資金繰りが苦しくなっていく。
大蔵省は、サッヴァの企業への査察を命じ、間もなく彼は、公金横領の冤罪で告発され、収監された。
獄中では、気晴らしに彫像を作っていたという。裁判で公金横領は証明できず、無罪放免となるが、借金を払うため、彼の資産は売却され、鉄道も市場価格よりはるかに低い値段で、国有化されてしまった。
当時の大蔵大臣はセルゲイ・ウィッテで、かつてはサッヴァと極めて親しく、ともに鉄道建設を促進してきた仲だったが・・・。サッヴァの冤罪については陰謀説もある。
ちなみに、サッヴァの鉄道株の一部は、ウィッテの親類の手にも渡っている。
サッヴァは1918年4月6日に亡くなり、彼がこよなく愛したアブラムツェヴォに葬られた。だが、ロシア革命という未曾有の大波のさなか、このかつての「モスクワのメディチ」の死は、ほとんど誰の注意も引かなかった。
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