アレクサンドル・ベリャーエフ |
ベリャーエフは、ロシア西部のスモレンスク市に司祭の息子として生まれ、神学校で学ぶが司祭にはならず、1901年に神学校を卒業すると、ヤロスラヴリ市のデミドフスキー法律学校に入学する。
まもなく父がなくなったため、絵描き、ヴァイオリン弾き、家庭教師などで家計を支えなくてはならなかった。
卒業後、ベリャーエフは法律家になり、成功する。仕事にも恵まれ、フランス、イタリアなどしばしば外国を旅行する。1914年には、すべてを投げ打って、執筆活動に専念するようになる。
寝ている間に革命と内戦
ところが、翌15年に突然、脊椎カリエスになり、6年間寝たきりとなって、首から下の自由を失ってしまった。
しかしこの間も、彼は腐らずに、読書に励み、とくにヴェレヌ、H.G.ウェルズ、ロシアのロケット工学の始祖ツィオルコフスキーなどの著書を愛読し、外国語も勉強した。
ようやく回復したのは1922年で、この6年間にロシア革命と内戦が起きていた…。
身体のない首が考えること
回復後、幼稚園の保父、警官などを転々とし、やがてモスクワに移って法務専門家の職を得て、執筆に打ち込んだ。
1925年に、彼が自伝的と呼ぶ処女作『ドウエル教授の首』が雑誌『探検世界』に採用された。ベリャーエフは、「身体のない首がどんな思いをするか」描きたかったのだと言う。翌1926年には専業作家となる。
ほかに、生物改造を描いた『両棲人間』(1928)、発明と冒険の連作短編『ワグナー教授シリーズ』などの作品を矢継ぎ早に発表し、人気を得た。
愛読者のドイツ将官に葬られる
しかし、健康にはその後も恵まれず、独ソ戦の直前にも手術を受けており、疎開を勧められたが、断った。
当時彼は、レニングラード近郊のプーシキン市に住んでおり、まもなく同市はドイツ軍に占領された。42年1月にベリャーエフは餓死し、ドイツ軍の将官によって葬られたという。この将官は、ベリャーエフの愛読者であったという。
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