レフ・トルストイの学校事業の日々

レフ・トルストイ、1909年=ボリス・プリホヂコ撮影/ロシア通信

レフ・トルストイ、1909年=ボリス・プリホヂコ撮影/ロシア通信

「私が結婚して数日後に、召使や農民や生徒たちがお祝いにやってきた」とレフ・トルストイの妻ソフィア・アンドレーエブナ・トルスタヤは回想した。農民は地主トルストイ家の畑で働いており、召使らは自分たちの地主屋敷の世話係だった。だがそれとちがった「階層」である、ヤースナヤ・ポリャーナの“生徒たち”とはいったい何者だろう。またなぜ彼らが農民や召使らと一緒に、若夫婦のもとにお祝いにやってきたのか。

パーベル・バシンスキー氏(51)

作家、文芸評論家。ロシアの文豪レフ・トルストイの評伝『レフ・トルストイ:天国からの逃走』(2010)はベストセラーとなった。ほかに、トルストイ関係では、『レフに敵対する聖者』(2013)、作家の評伝では『マクシム・ゴーリキー:神話と伝記』などの著作がある。

 作家としてのトルストイは広く知られている。思想家・宗教伝道者トルストイは、それほど広くではないが知られている。だが教育者トルストイ、読み書きや、周囲の世界についての最初の知識を児童に教える原則的に新しい教育法を作り上げた人物としてのトルストイや、初等教科書『アズブカ(アルファベット)』の著者としてのトルストイは、まったく知られていない。

 この本には、庶民である靴屋の息子から皇帝の子弟にいたるまで、19世紀ロシアのあらゆる子どもが読むべきだと彼が考えた作品を取り入れた。ここには、ロシアの未来を構成する人々を通じてロシアを統一させるというトルストイの念願思想があった。トルストイの教育理念は、つまりは、子供にとって興味深く、子供自身が自分に有益と見なしたものだけを学ぶようにするため、子供の理性や性質に対する強制を無くすることだ。こうした理念は、19世紀後半のロシアに普及した教区学校の教育方針に激しく対立するものだった。トルストイは、ヤースナヤ・ポリャーナとその近くの、地主たちが反対しない領地の農民の子供たちの間に、自分の教育システムを適用しようと努めた。

 

 多面的な教育活動 

 ヤースナヤ・ポリャーナ学校は1959年に開校した。そこにそんな建物はなかったので、子供たちは屋敷の入口にある番小屋でも、トルストイ家が住んでいた母家でも、その隣の離れでも勉強した。教員は、トルストイがモスクワで集めてきた学生たちとトルストイ自身。後には妻ソフィア・アンドレーエブナも加わった。教育に熱中していたトルストイは、1860年代初めに西欧大旅行を行い、その西欧で教育システムを研究した。

 現在でもヤースナヤ・ポリャーナの家で、たとえば顕微鏡など、当時としてはきわめて複雑な器具を見ることができるが、それはみな、外国から取り寄せたものだ。子供たちは天体の運行、物理学、化学、数学、地理学の基礎を学んだ。

 そしてもちろん、大きな役割が文学に充てられていた。トルストイは3冊の初等教科書を編纂し、それに人生の数年をかけた。いくつかの短編は自分で書いた。たとえば、今日では傑作と認められて、すでに幾度も映画化された『カフカースの捕虜』など。初等教科書『アズブカ』の基礎になったのは、民話や宗教伝説や聖者伝だが、それらは特異な話で、これらのジャンルの教会的理解に応えるものではなかった。

 

 『三人の隠者』に見える教育観 

 たとえば『三人の隠者』という伝説。高僧の府主教が船で北方の島のそばを通りかかり、そこに3人の聖なる隠者が住んでいるという話を聞く。府主教は接岸を命じた。「どんな祈りをしていなさる?」と府主教が隠者らに聞くと、「ごく簡単なものです」と彼らは言う。「あなたは3人、我らも3人、我らを憐れみたまえ!」(3人というのは、父と子と聖霊の三位一体のこと)。「間違った祈りです」と府主教は言い、教会のやり方でどう祈らねばならないかを隠者らに説明した。そしてさらに先に船を進めていると、三人の隠者が、まるで陸を走るように海をまっすぐ彼の方に走ってくるのが見えた。「神父さまー」と彼らは叫んで言う。「どう祈るのが正しいのか、もう一度教えてくださーい! 忘れてしまったのです!」 府主教は狼狽した。「いつも祈っているように祈りなさい! 罪深い私があなた方に教えられましょうか!」

 ここに「実践と『生きた生活』であり、『死んだ言葉』ではない」というトルストイの教育法の本質がある。

 

 成功したのになぜ頓挫? 

 ヤースナヤ・ポリャーナで過ごした幼年時代についてのトルストイの子供たちの回想を読むと、もし彼がヤースナヤ・ポリャーナに隔離された天国を作り上げることを夢見たのであれば、間違いなくそれは成功したと考えずにはいられない。しかしシステムと実践としての教育は、若夫婦の家庭生活と両立するものではなかった。

 1862年にトルストイは、友人のイワン・ペトロービッチ・ボリソフにこう書いた。「有難いことに、わが家はすべて順調で、私たちは死ぬ必要がない暮らしぶりです」。だが、トルストイがわが「最後の愛人」と呼んだ教育とは別れてしまった。その原因は、彼が1862年に年間を通して発行し、自分の教育プロジェクトを発表した教育雑誌『ヤースナヤ・ポリャーナ』が社会的関心を呼ばなかったことだけではない。また農民の子供たちがいつも野良仕事に忙しく、勉強どころでなかったというだけの理由でもない。主要な原因は、教育と若い妻の関心とが共存できなかったことではあるまいか。

 たとえば、独自の「研修」と「経験交換」のため、ヤースナヤ・ポリャーナに来ていた村の教員たちが客間で煙草を吸ったが、結婚まもなく身重になったソーネチカ(トルストイの妻ソフィア)には、煙はけっして我慢できなかった。

 「あの青年たちはみな、私がいると、とても気づまりで、ある人たちは、レフ・ニコラエビッチ(トルストイ)が全関心を家庭生活に移し、彼との親しい交際が今に終ってしまうだろうと感じて、私を敵意の目で見ていた」とソフィア・アンドレーエブナは回想する。

 

 日本で関心呼んだトルストイ式教育 

 「トルストイ式」学校は、19世紀も20世紀もロシアに根を下ろすことはなく、現在のロシアでは、教育というよりはむしろ子供たちの養育が、「トルストイ式」傾向で行われているような学校は、わずか数校を数えるだけだ。だが「トルストイ式」のやり方で子供たちをきびしく教えている学校が、日本にいくつかあるというのは興味深い。