日本読者の想像力

マリインスキー劇場で上演されたオペラ「カラマーゾフの兄弟」(作曲・スメルコフ、演出・バルハトフ)の一場面=ナタリア・ラージナ撮影

マリインスキー劇場で上演されたオペラ「カラマーゾフの兄弟」(作曲・スメルコフ、演出・バルハトフ)の一場面=ナタリア・ラージナ撮影

新しい時代が来るたびに、ドストエフスキーが新発見される。彼の小説は永遠性と焦眉の問題が一体化された産物なのだ。現在の日本社会が、『カラマーゾフの兄弟』を訳し直し、読み返し、主人公らを注視したいという要求を感じ取るなら、今日の時代に響き合う「カラマーゾフ一家」の神経をとらえたということだろう。

 日本人は、ドストエフスキー理解において、すでに100年の歴史を誇る。20世紀の10年代から読み始め、この古典作家の創作を、自分と血のつながる文学として受け止めた。

 過去1世紀にわたって日本が体験した大変動の影響のもとで、日本の読者は想像力をつかむ人間心理の確かで清浄な水源に向かうように、ドストエフスキーを読んできた。

 第一次世界大戦と同時代の新しい日本文学の発展期は「ドストエフスキーの時代」とも名づけられる。ロシア文学全般、中でもドストエフスキーの創作を愛した芥川龍之介の作品はドストエフスキー文学との類似性が指摘されている。

 ドストエフスキーの小説とその登場人物を愛する日本人の「ドストエフスキー愛」は、この偉大な古典作家を評価し、読み返す理由があることを、あらためて確認するものである。

 100年前に、日本文壇の指導者だった小説家、尾崎紅葉は、日本人とロシア文学の関係について、「露西亜文学は血の滴るビフテキのやうなものだが、われわれ日本人は精進料理を食っている」と語った。この意味でドストエフスキーは、まさしく「血の滴る」作家だ。 彼の最後の長編では、舞台上と舞台裏を合わせれば、実に43人(!)が死ぬ。 

 そこで人々の生活を支配しているのは敵意と不信である。家族から母性愛は姿を消し、父親と息子らは互いに軽蔑し合い、お互いを恐れている。愛と哀れみはあまりに少なく、悪意と憎しみがあまりに多い。 

 家族にも、社会にも、教会にも、法廷にも、砦(とりで)となる支柱がなく、すべてが揺らぎ、退廃していく。すべてのつながりが壊れ、真実は真実でない。守る対象となる人間も、守ってやる理由もないかのようだ。 

 末の弟アリョーシャに委ねられた積極的な愛の機会は失われた。「俗界に暮らして、父親と2人の兄弟のそばに居よ」というゾシマ長老の命令は果たされなかったのだから。アリョーシャは自宅での苦しみからのがれて、ガリラヤのカナの婚礼の夢を最後まで見たいと願う。 

 ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』で叫んでいる。 

 「自分の家を見よ!整理整頓せよ。その小さな空間は君の責任に委ねられている。父親と兄たちを守る番人になれ、……それが終ってから、呪わしい問題を解決し、空想にふけり、予言の夢を見るがいい。大きなことを考える権利をもつために、小さなことから始めよ!」と。 

 だがアリョーシャは、自分の運命を見落としてしまった。 

ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』の中で、このことを大声で熱く語っている。ドストエフスキーの「警告の書」はロシアの慢性的な重い病に正確な診断を下している。 

 しかし、現在のロシアの読者は、それがよく聞きとれず、時には全く聞いていない。 

 日本ではこれが聞きとられ、気づかれるだろうか。かつて、『カラマーゾフの兄弟』の作者の予見に衝撃を受けた芥川龍之介がそれを見いだしたように、現在の日本の若者たちは新訳によって自分のために悲劇的な世界の扉を開いていくだろうか? 

 現代の読者は、日本人もロシア人も、『カラマーゾフの兄弟』のフィナーレに光を見いだそうと努め、続きがどうなるだろうかと懸命に推理している。 

 亀山郁夫氏が「続編」を推理した本を出したほか、「カラマーゾフの妹」(高野史緒著)が昨年、江戸川乱歩賞を受賞したのは象徴的だ。 ただ、ここで重要なのは、取り違えをしないこと、望むことを現実だと見誤らないこと、そして会話の高みを恐れないことである。

3ドストエフスキー生涯最後の長編

  1. カラマーゾフの兄弟」は1880年11月に完成。作者は出版から4カ月後に亡くなった。
  2. 当初の構想では、この作品は大長編の第1部にすぎなかった。続きは20年後という設定で、末弟アリョーシャがリーザとの複雑な愛憎に苦しみ、長兄ドミートリーはシベリアから既に戻っているはずだった。
  3. 「カラマーゾフの兄弟」は、文豪レフ・トルストイが生涯の最後に読んだ本の一つだった。