「9人の死者の山」

ソ連の新聞各紙への掲載が解禁になった1990年代に、かつて1959年にこの事件を「彼らの死の原因は自然力であり、人間はそれに打ち勝てない」という表現で隠蔽した捜査官レフ・イワノフ氏が、いくつかのインタビューに応じる機会があった。

ソ連の新聞各紙への掲載が解禁になった1990年代に、かつて1959年にこの事件を「彼らの死の原因は自然力であり、人間はそれに打ち勝てない」という表現で隠蔽した捜査官レフ・イワノフ氏が、いくつかのインタビューに応じる機会があった。

ロシア北部の先住民マンシ族が「9人の死者の山」と呼び習わしてきた峠で、1959年に若い旅行者らが奇怪な死に方をした。その数はまさに9人! 怪事件から半世紀ぶりに、レニー・ハーリン監督はこれを映画化した。この映画『ジャトロフ峠の秘密』は、カルト的なサブカルチャーの題材を大衆文化の財産に変えてしまったが、こういう変貌を歓迎しない人もいる。

 最初に発見されたのは5人だった。ユーリー・ドロシェンコとユーリー・クリボニシチェンコが、下着まではぎ取られた状態で倒れていた。放置されたテントから斜面を1.5キロほど下ったヒマラヤ杉のそばだ。

 

奇怪な死体たち 

 グループの指導者イーゴリ・ジャトロフは、衣服は身につけていたが、靴は無く、右足は羊毛、左足は綿と、左右が別の靴下を履き、顔を雪面につけ、片手で白樺を抱えて倒れていた。ヒマラヤ杉からテントの方向に300メートル昇ったところだ。頭はテントに向きだった。

 さらに300メートル昇った斜面にジーナ・コルモゴーロワが倒れていた。やはり頭をテント方向に向け、同様に靴は無かった。ジーナからさらに180メートル上方にルステム・スロボージンが倒れていた。頭蓋に穴が開けられ、左足は靴下を4枚履いてフェルト靴、右足は素足だった。

 


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眼球と舌を抜かれ、肌はオレンジ色 

 その他のメンバーが見つかったのは、ずっと遅く、2ヵ月後の晩春だ。リュドミーラ・ドゥビーニナは小川の傍に膝をつき、小川に顔を向けていた。すぐそばにセミョーン・ゾロタリョフとアレクサンドル・コレバトフが抱き合って倒れており、その正面の水の中にニコライ・チボー・ブリニヨーリがいた。ゾロタリョフには眼球がなく、ドゥビーニナは眼球と舌がなかった。さらに死者たちの皮膚の不思議な色が話題になった。ある者は赤、ある者はオレンジ色だった。

 

「サラファン・ラジオ」で広まる 

 それは1959年、ソ連の時代だ。こうしたことは新聞には書かれなかった。さらに、実際に何か起こっているのかを新聞で知る習慣は、人々にはなかった。ソ連の人々にとって、「サラファン・ラジオ」とも呼ばれた、口づてに噂と都市伝説を伝えるシステムが、マスメディアの代わりになっていた。

 ツアー参加者の葬儀には、スベルドロフスク市(エカテリンブルグの当時の名)の街中の人が集まった。旅行グループの死をテーマにした初期のフォーラムがインターネット上に登場する数十年前に、旅行者たちの怖ろしい死をめぐる話は、虚構と現実をまじえ、あれこれと尾ひれをつけて、口から口へ、世代から世代へと伝えられていった。

 

ソ連のミステリーゾーン誕生 

 団体ツアーと言って連想するのは、当時のロシアでは、名所を背景にした写真撮影というよりも、知らない土地を訪ねる、ロマンに満ちたハイキングであり、リュックにテント、ギター伴奏の歌が連想される時代で、1950年代はそうした団体ツアーが始まったばかり。 

 そして数世代の旅行者にとって、ジャトロフ・グループの話は、夜、休憩中の焚火のそばで議論するのが面白くも怖ろしい第一番のミステリーになった。旅行者たちが斜面で死亡した峠には、イーゴリ・ジャトロフの名がつけられた。今そこには、有志の誰かが設置した記念碑が立っている。

 

かつての捜査官が超常現象を示唆 

 ソ連の新聞各紙への掲載が解禁になった1990年代に、かつて1959年にこの事件を「彼らの死の原因は自然力であり、人間はそれに打ち勝てない」という表現で隠蔽した捜査官レフ・イワノフ氏が、いくつかのインタビューに応じる機会があった。そこでイワノフ氏は、あの「自然力」は、何らかの超常現象、UFOか「雪男」か、何かこの種のものに関連していると明瞭に示唆した。

 イワノフ捜査官の記録は、ジャトロフ・グループ事件の証拠文書の基本資料だった。ハイキングの全行程でグループのメンバーは日記をつけ、積極的に写真に写っている。すべての写真はファイルに綴じられ、やがて全写真資料が社会の財産になった。人々の陽気な顔、昔風の服装、そして北ウラルの印象的な風景――山と雪、雪また雪。

 

雪崩説ラーゲリ?秘密兵器? 

 旅行者たちの死についての公式見解はなかったし、おそらく今後も出てこないだろう。だが、あらゆる謎の歴史には、それを疑う人たちがいる。彼らの喜びは、いかなる謎も存在しないという信念だ。北方、雪、冬、――旅行者たちを死なせたのは雪、雪崩、あるいは、テントを埋め尽くして、旅行者たちを混乱、驚愕させ、衣服もろくに身につけないまま、無理やりテントから逃げ出させ、彼らを凍死させた「どか雪」か。

 

9人の死者の山」で死んだ9 

 だが、やはり雪でなかったとしたら? 人気のない寒い土地、その土地のことは、確実には誰も何も知らない。そこは、強制収容所のラーゲリも、秘密の核工場も、未知の武器の実験場も、同程度に存在しえた土地だ。あるいは単なる魔法の地でさえも。――ロシア人が訪れるずっと前にこの地方に住んでいた北方原住民のマンシ族の人々は、峠を「9人の死者の山」と呼んでいたが、ジャトロフ・グループの旅行者は9人だった! ヒントになるデータが大量にあり、確たる最終結論のない事件というのは、古典的なホラーの理想的題材だ。

 

ネットの暗い片隅で 

 さらに、インターネット・フォーラムで激しい議論が交わされる。人気の推理作家らの論文、このハイキングとその詳細の追求に何年もの年月をかけた無名の有志たち。ジャトロフ・マニアは、ロシアのインターネットの重要な現象のひとつだ。

 5年前なら、ジャトロフ・グループの惨劇を描くハリウッド映画はセンセーションを巻き起こしただろうが、今では、「今さら、何なのさ?」と、当惑して肩をすくめるだけだ。長年、インターネット・フォーラムでジャトロフ・グループについて議論してきた人たちには、もちろん、レニー・ハーリンの映画は気に入らないだろう。

 映画そのものではなく、ローカルな主題が広く知られる物語に変貌するのが問題なのだが、彼らはそのことを決して認めようとはしない。アンダーグラウンドがポップカルチャーになることは、誰も決して好まない。しかし、面白い都市伝説は、こうして日の当たる場所に引っ張り出され、「ハイレベルな物語」に仕立てられて、伝説の生命を失う、ということになりがちだ。

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