日露和親条約を締結

日露和親条約 写真提供:World Imaging / wikipedia.org

日露和親条約 写真提供:World Imaging / wikipedia.org

1855年の今日、2月7日に伊豆の下田で、日本とロシアの間で日露和親条約が締結された。ロシア側の全権はプチャーチン提督だった。

この条約によって、日露の国境線は、択捉島とウルップ島の間に引かれ、樺太に関しては、国境を引かずに、今までと同じく両国民に混住させることとした。また、ロシア船舶の補給のために、函館、下田、長崎を開港することになった。

この条約は、ほぼ100年後、日ソ間の領土問題の発生とともに、再び脚光を浴びることになる。

クリル諸島の範囲をめぐる論争に一石 

1951年に日本は、サンフランシスコ平和条約で、「千島列島」(クリル諸島)を放棄したが、その千島列島の範囲が争点の一つとなった。つまり、千島列島は、国後、択捉、歯舞、色丹を含むのかどうかである。

その範囲の根拠の一つとして、日露が平和時に結んだ日露和親条約が引き合いに出されることがある。

ところが、日露和親条約は、ロシア語・オランダ語・中国語・日本語の条文が作成され、いずれも有効なのだが、まさにこのクリル諸島にかんする箇所に、ロシア語・オランダ語と日本語との間に食い違いがあるのだ。
 ロシア語とオランダ語では「残りの、北のほうの、クリル諸島」と書かれているが、日本語では「夫より北の方のクリル諸島」となっていて、「残りの」が抜けている。

このため、日本語の条文を見ると、「それより北」、つまりウルップ島より北が、クリル諸島である、要するに、ウルップ島より北がクリル諸島だ、と読めるという意見がある。

その一方で、ロシア語・オランダ語を見れば、ウルップ島以南も含むのは明らか、との考えもある。