最後の6戦は、カルポフ有利の展開で、コルチヌイが勝負を放棄し、カルポフの勝利が確定した。モスクワ、1978年=タス通信撮影
挑戦者のヴィクトル・コルチヌイはソ連市民だったが、1976年にアステルダムでの大会に参加するために出国した際に、ソ連から亡命しており、「裏切り者」呼ばわりされていた。そのため、この対戦は政治がらみとなった次第。
「殺されるんじゃないかと思っていたよ」
当時のルールでは、「6局先勝、局数無制限」ということで、先に6勝した方が勝ちなのだが、しばしば引き分けをはさむので、延々と勝負が長引くことがめずらしくなかった。コルチヌイは3局続けて負けた後、3連勝し、5対5のタイにもちこんだ。
ずっと後になって、カルポフのコーチのミハイル・ターリは「もし、負けたら、みんな殺されるんじゃないかと思っていたよ」と言った。
最後の6戦は、カルポフ有利の展開で、コルチヌイが勝負を放棄し、カルポフの勝利が確定した。これは当時最長のマラソン対局だったが、カルポフはその数年後にこの記録を更新することになる。
水入り引き分けの激闘
1984年、当時21歳の新星ガルリ・カスパロフ(ソ連アゼルバイジャン共和国出身)が、それまで約10年世界チャンピオンのタイトルを保持していたカルポフに挑戦することになった。この対戦は、1984年9月10日から翌1985年2月15日まで、2年越しに行われ、その激闘ぶりはいまだに語り草となっている。
結局、48局で、5勝3敗40引き分けのまま、世界チェス連盟会長カンポマネスの判断で対局は中止になり、無勝負とされた。勝負の後半は、カスパロフが優勢に転じていた。中止には、ソ連スポーツ省の圧力があったとされる。
85年の再戦ではカスパロフが勝利し、以後、15年間にわたりタイトルを守り続けることになる。カスパロフは現在、野党の指導者としても知られる。
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