写真提供:サマーラ・オペラ・バレエ劇場
畠中香菜子さん =アレクサンドル・ アルヒポヴ撮影 |
インタビューしたのは、畠中さんが週一度の休日である月曜日のほか、毎日を過ごしている劇場のなか。「平日、友だちと会うのは少し不便」と彼女は不平を洩らしたが、すぐに言い直す。「バレエの方が好きなの」。
16歳で名門「ペルミ舞踊学校」に入学
「バレエは3歳のときから。でも日本ではバレエ・ファンは少なくて、ロシアみたいに満員になることはありません。だから16歳のとき、ペルミ舞踊学校に入学を決めました。そこの卒業公演でサマーラ・バレエ団の芸術監督キリル・シュモルゴネルさんが私に目をとめ、サマーラに招いてくれたのです。」と畠中さんは言う。
ロシアに住んで6年になるが、サマーラ暮らしは、まだ1年だ。ボルガ川沿岸の町に来るには、ふるさとの鹿児島市から8000キロを踏破しなければならなかった。最初こちらに来たとき、何もかもが「驚き」だった。気難しい顔つきの人たち、悪路、きびしい凍寒・・・。
ロシア語もマスター
だが一番難しかったのは言葉を覚えること、と自分で打ち明ける。次第に悪路も平気で歩くようになり、みんなとも仲良くなった。今ではロシア語も上手に話し、ロシアのテレビの風刺番組を見て、けらけら笑う。土地の料理が好きで、自分でも友だちのためにブリンやボルシチを作る(劇場では、テレビの料理番組に畠中さんを出演させる企画もある)。もっとも、自分では、美味しい料理をたらふく食べるわけにはいかない。ほんの少しチョコレートに手を伸ばせるのも休日だけ。
とにかく仕事をしたい
日本は懐かしいし、母親は帰ってきなさいと言うが、帰国したいとは思わない。一度も思わなかった。とにかく仕事をしたい。10時30分から劇場で稽古。その後、舞踊学校に行き、夜は公演。あとは疲れて、ぐっすり眠るだけ。だから、ショッピングを楽しんだり、日本料理店に行ったり、夏にはボルガ川の浜辺で過ごしたりしようにも、時間がわずかしかない。鹿児島育ちの彼女にとって珍しいスキーやスケートは、まだマスターしていないが、ぜひやりたいと思っている。
「夏、休暇で両親のところに帰った。お土産はマトリョーシカ人形とサマーラのチョコレート菓子。お菓子をあげて、帰ってきたわ。日本は文化が別で、バレエ・ファンは数えるほど。私設の劇場ばかりで、バレエ・ダンサーでは生きてはいけない」と畠中さんは言う。
創造の気がみなぎるサマーラで
サマーラで畠中さんは高給で、さらに彼女の住居費も劇場が払っている。だが重要なのは、バレエ団に創造の空気がみなぎっていることだと、彼女自身が断言する。そして豪華な劇場装飾の、この創造の空気の中で(サマーラ・オペラ・バレエ劇場は、改築後、本物のルネッサンス期にある)、彼女はすでに、「白鳥の湖」のパ・ド・トロアや「くるみ割り人形」の中国人の踊りなど、最初の重要な役を踊り、コールド・バレエ(群舞)・ダンサーからソリストに成長した。
この劇場では、もうすぐ、日本人バレリーナのデュエットが見られるだろう。畠中香菜子さんは、同じ故郷のナカジマ・マリナさんがサマーラに来るのを待ち受けている。
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