エカテリーナ2世 |
玉の輿
ゾフィー・アウグスタ・フレデリーケ、のちの女帝エカテリーナは、北ドイツ(現在はポーランド領)の神聖ローマ帝国領内の小さな公家に生まれた。彼女が“玉の輿”に乗るについては、ゾフィーの教養と聡明さにくわえ、母ヨハンナの縁が大きい。ヨハンナの長兄は、ロシアの女帝エリザヴェータの婚約者だったのだが、若死にしてしまった。女帝が若き日のロマンスを記憶してのが幸いしたわけだ。
ゾフィーは、1745年にロシア皇太子ピョートルに嫁ぐ。しかし、夫婦仲は早々に冷え切り、それぞれが愛人をつくるようになる。ピョートルは男性能力に欠陥があったので、エリザヴェータが、世継ぎを産ませるために、黙認したという説もある。
チャンス到来
1762年、女帝が逝去し、ピョートルが即位する。当時、ロシアは七年戦争を戦っており、プロイセンのフリードリッヒ二世を絶対絶命のピンチに追い詰めていたのだが、極端なドイツびいきで、フリードリッヒ大王を敬愛するピョートル三世は、いきなり和議を結んでしまう。
ルター派の信者であった彼はロシア正教会にも圧迫をくわえるなど、その支離滅裂な政策は内外の不評を買った。
こうした状況のなか、大貴族のニキータ・パーニンなどにエカテリーナ擁立の動きが出てくる。ちなみに、18世紀のロシアは大貴族の力が強く、何度も宮廷クーデターを起こしている。エカテリーナにとってはチャンス到来だが、あいにく彼女は、愛人グリゴリー・オルロフの子を妊娠していて、動きがとれなかった。
決行
エカテリーナは4月にこっそりお産をすませると、一部大貴族、近衛連隊などの支持を得て、クーデターを決行する。彼女は初めはためらっていたが、グリゴリー・オルロフの弟アレクセイが業を煮やして彼女を訪れ、「気合を入れた」という話もある。
ピョートル三世はあえなく捕らえられ、幽閉されてしまった。ほどなく公式発表によると「持病の痔が悪化して急逝」したが、実は、アレクセイ・オルロフに暗殺されたという。
エカテリーナ即位
エカテリーナ二世の戴冠式は、歴代ツァーリの慣例にしたがい、モスクワのクレムリンのウスペンスキー寺院で挙行され、華麗なセレモニーや舞踏会、芝居の上演などが引きも切らなかった。
「私を目にしたときの群衆の喜びようといったら、筆舌に尽くしがたいものがあります。ちょっと引っ込んでまた顔を出すと、また大歓声が上がるのですから」と33歳の新女帝は駐ワルシャワ公使に書き送っている。
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