チュメニの元技術専門学校=アレクサンドル・ベリャーエフ撮影
1941年の今日、レーニンの遺体が疎開
公式の資料によると、1941年の今日、レーニンのミイラが赤の広場のレーニン廟から極秘のうちに疎開した。
当時、ドイツ軍の爆撃が日を追って激しくなっており、ソ連政府は、モスクワから最も貴重な資料、博物館の展示品、文化財などを別の都市に移さざるを得なくなった。レーニンのミイラについても、シベリアのチュメニ市への疎開が決まった。
チュメニの元技術専門学校へ
臨時のレーニン廟となったのは、チュメニ市の中央にあった、技術専門学校の2階建ての建物で、周りは高い塀で囲まれていた。棺は2階に安置され、2階の窓はレンガでふさいだ。
1階には、守衛と生物化学者イリヤ・ズバルスキー教授をはじめとする科学者が住んだ。ズバルスキーは、レーニンの遺体の保存処理(エンバーミング)の方法を考案した当の人物。
その方法は、ズバルスキー本人の著作によると、臓器等を摘出し、ホルムアルデビド溶液を主成分とする防腐剤「バルサム液」を浸透させるというもの。1年半に1度、遺体をバルサム液に漬ける“メンテナンス”が必要だという。メンテナンス作業を行っている映像も公開されている。
背広の注文で真実が
チュメニには当時、極秘の軍事施設や産業施設はなかったので、元専門学校の厳戒ぶりは、様々なうわさを呼んだ。一番多かったのは、塀の向こうではロケット砲「カチューシャ」のロケット弾を作っているのだ、というものだった。
しかし、半年後には、チュメニ全市に真実が知れ渡ることになった。そのきっかけは、ズバルスキー教授が、レーニンのミイラ用に、1920年代のスタイルの背広を新調せざるを得なくなったことだ。
遺体のモスクワ帰還の指令が出たのは、1945年3月29日のことで、4月には首都に戻った。9月12日には、スターリンは、レーニン廟の開館を命じる書類に署名した。
レーニンの遺体が1924年に保存処理を施されて以来85年間経つが、これは廟を離れた唯一のケースだ。近年は、遺体の埋葬をめぐる議論が続いている。
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