鳩山由紀夫氏インタビュー

=タス通信撮影

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55年前、日本の国会は「日ソ共同宣言」を批准した。1956年12月20日の批准日に、鳩山一郎首相はこのように語った。「在任中私の最も力を注いだものは日ソ国交の正常化でありました」

鳩山一郎の尽力は高く評価された。衆議院は全会一致でこの宣言の批准を承認した。全会一致というのは歴史的に見て、極めて稀なケースである。それゆえ、鳩山一郎首相が「責任感と共に総理大臣の職を退き、内閣総辞職を宣言した」と言ったことにも根拠がある。

鳩山一郎内閣の功績の一つとして、メディアは日露(日ソ)関係の正常化を評価した。「日ソの国交を回復して、国連加盟の道を開いたこと(中略) 鳩山内閣の名前と共に、永久pushに残る業績といわなければならない」(1956年12月20日付『読売新聞』)

日ソ共同宣言は平和条約ではないが、二国間の平和と国交の正常化を宣言するもので、鳩山一郎首相が最重要課題としたことを実現するものであった。

「ロシアNOW」のインタビューに対し、一郎氏の孫にあたる鳩山由紀夫元首相が、日ソ共同宣言にまつわるエピソードと、今後の日ロ関係に関する自らの考えを語ってくれた。

──祖父一郎の「孫」の記憶には、何か当時の祖父の印象は残っていますか

私の祖父の印象は、非常に恐い存在であったということです。私たち兄弟が、食事中に笑ったりすると、「何でおかしい!」と叱られたことがあります。祖父はその頃、脳卒中の後遺症で身体が不自由で、自分が馬鹿にされたのでは、と誤解したのかも知れません。ただ気分の良い時には、ベランダに出て数多くの色紙に友愛と揮毫している姿が強く印象に残っています。弟の邦夫とはまた違うと思いますが、私自身、政治的な話を祖父から直接聞いたことは、正直全くありません。あくまでも、私が政治家を目指すようになった過程の中で、祖父が考えた友愛の理念や当時の状況を私なりに考察し、薫陶をうけたものであります。

ただし、55年前、二度と母国の地を踏めないかもしれないという強い覚悟と決意の下、旧ソ連に旅立ち、日ソ国交回復を成し遂げ帰国した祖父を迎えた、音羽の家の周りを埋め尽くした群集が打ち振る日の丸の旗のことは、私は9歳でしたが未だに記憶に鮮烈に残っています。大パパ(おおぱぱ)(私たちは祖父をこう呼んでいました)は、すごいことをやったんだなあと。

── 鳩山一郎元総理は、日ソ関係の正常化を成し遂げた後、平和条約締結を悲願としたが、それはなし得ませんでした。孫として、日ロの平和条約締結についてどう思いますか。


私も政治家を志すようになった事から、当然ながら祖父の偉業に加え、父が外務大臣を務めた経緯もあり、とくに旧ソ連、ロシアとの関係改善はライフワークになると直感しましたし、現実に何度も訪ロし指導者や様々なロシアの方々とお会いするにつけ、鳩山家の人間として、自分の天命だと思っています。

   また、一郎は平和条約を結ぶことができませんでしたから、孫としてロシアとの間の領土問題を解決して平和条約を結ぶことが最大のテーマだと思っています。自分が総理時代に領土問題を進展させることができずに残念な思いはありますが、これからも挑戦していく所存です。日本政府は従来四島一括返還を前提にしてきましたが、相手との信頼関係を構築しなければ交渉が成立することはあり得ません。四島の帰属は明確にしつつ、より柔軟な対応が求められます。日ロ間でエネルギー、環境問題などを始めとして、協力関係を発展させることが両国にとってウィン・ウィンの関係をもたらします。このことを確認しつつ信頼関係を醸成していくことこそ、平和条約の締結への最も近い道程であると信じています。

──両国の日ロ関係の担当者にメッセージを。


私は2年前の所信表明演説で、ロシアは日本にとってアジア・太平洋のパートナーであると述べました。そうです、両国は大事なパートナーなのです。ところが残念なことに、戦後長い間、そして私が総理を辞した後も、必ずしもそう呼べるほどの状況にはなっていませんし、そのことによって両国とも潜在能力を発揮できずに国益を損なっていると思います。ぜひ、日ロ両国の日ロ関係の担当者には、お互いに胸襟を開いて、相手を信頼し、両国が真にパートナーと呼べる状態にまで導いてほしいと願います。

──その他


極東、シベリアの発展に日本が協力することが日ロの信頼関係の構築に最も有力であると考えます。

日本は二度と武力によって他国を攻撃するような行為は行わないことを憲法で誓っています。即ち、覇権主義的行動は断じてとりません。そのことを信頼頂き、日ロの協力が単に経済的な利益をもたらすだけでなく、安全保障上も相互利益をもたらすと理解してください。