露日交流を記憶する五つの場所

 1891年に、後にロマノフ朝最後の皇帝となる皇太子ニコライは、長崎から日本の旅を始めた。

 1891年に、後にロマノフ朝最後の皇帝となる皇太子ニコライは、長崎から日本の旅を始めた。

写真提供:長崎市立図書館
 世界には、露日関係発展の歴史と結びついた場所が何十とある。そのうちのいくつか、例えば、ウラジオストクと東京では、このテーマで特別なエクスカーションを行えるほどだ。既に記憶が風化しつつあるが、両国友好の頁を想起させてくれるような場所を、ロシアNOWが五つ選んだ。

長崎

 この都市が国際的な過去を誇るには、正当な理由がある。かつてここには、ポルトガル、オランダ、中国の商館があり、それらは、日本と交易を行う独占的な権利を有していた。今日まで保存されているオランダ建築と中国街は、長崎独特の「名刺」でもある。ロシア人にとってもやはり、ナガサキの名は空疎なものではない。

 まず、1804年に、帆船「ナジェージタ号」から出島に、ニコライ・レザノフ伯爵率いる外交使節団が降り立った。ロシア政府が、鎖国していた日本と通商関係を打ち立てようと試みたのは、これが2度目のこと。しかし、半年後、使節団は交渉で成果を挙げられぬまま、長崎を後にするが、再び当地に、1853年に来航する。

 この時、ロシアの外交団を率いていたのはプチャーチン提督であった。が、この時もまた、長崎には長く留まらず、下田に向かい、そこで1855年に二国間初の条約が結ばれる。

 この日露和親条約により、ロシアは3つの港、すなわち下田、函館、長崎を通じて、日本と交易できるようになった。それから間もなく、九州のこの地、長崎の稲佐山のふもとにある悟真寺の近くに「ロシア村」が現れた。ここには、いくつもの通りがあり、礼拝堂、居酒屋のほか、ロシア人墓地まであった。

 1891年に、後にロマノフ朝最後の皇帝となる皇太子ニコライは、当地から日本の旅を始めたが、これは偶然ではなかった。彼は長崎で、右の前腕に竜の入れ墨まで彫り、この街の「記念」を終生身に付けて歩くこととなった。ちなみに、ロシア人にとって、「長崎の娘」というのは、今日にいたるまで、洗練されたエキゾチックな美のシンボルである。

 時代は下って1991年、ソ連の最後の指導者、ミハイル・ゴルバチョフ大統領が当地を訪れたが、入れ墨はしなかった。

 

函館

函館ハリストス正教会=Shutterstock/Legion Media函館ハリストス正教会=Shutterstock/Legion Media

 1858年に最初のロシア領事館が開かれたのは函館で、初代領事は、有能な外交官で東洋学者でもあったヨシフ・ゴシケヴィチだった。その3年後、当地に、ロシア正教の修道士ニコライ・カサートキンが来訪した。彼はここで、日本初のロシア正教の教会を成聖し、さらに東京へと赴いた。そこで彼は、日本大主教ニコライとして知られるようになった。彼が建立した、お茶の水の東京復活大聖堂は、函館から日本の旅路を始めたこの人物の名にちなんだ、ニコライ堂の通称で親しまれている。

 なお、1908年に建設されたロシア領事館の建物は、1916年建立の教会「函館ハリストス正教会」と同じく、今日まで保存されており、後者は重要文化財に指定されている。

 

日光 

『日光東照宮』、ワシリー・ヴェレシチャーギン『日光東照宮』、ワシリー・ヴェレシチャーギン

 函館の「ロシア的風物」が多くの人に知られている反面、ロシアとこの美しい街、日光との関係については、専門家と美術愛好家にしか知られていない。

 戦争画で有名な画家ワシリー・ヴェレシチャーギンは、1903年に当地を訪れ、素晴らしい連作「日光東照宮」を描いた。この作品は今、サンクトペテルブルクのロシア美術館の所蔵となっている。ヴェレシチャーギンは日露戦争のさなか、1904年に旅順港で、旅順艦隊司令長官ステパン・マカロフとともに戦死した。

 ロシア革命後の1918年には、別のロシア海軍提督、アレクサンドル・コルチャークがしばらく日光で過ごしている。彼は、ボリシェヴィキからシベリアを解放しようと試みたが、その2年後に彼らの手で銃殺されている。

 

ウラジオストク

「ロシア柔道の祖」であるワシリー・オシチェプコフとその日本人指導者の銅像、ウラジオストク=ヴィターリイ・アンコフ/ロシア通信「ロシア柔道の祖」であるワシリー・オシチェプコフとその日本人指導者の銅像、ウラジオストク=ヴィターリイ・アンコフ/ロシア通信

 今年9月2日、安倍首相は、日露間の実のある民間交流の歴史の場をウラジオストクで目にできるだろうと述べた。これはコラベリナヤ河岸通り21番地のスポーツクラブのことを指している。ここで、1914年からロシア初の柔道場が活動を始めた。指導したのは、ニコライ・カサートキンと嘉納治五郎の弟子であるワシリー・オシェプコフ。ロシア初の柔道の有段者で、外国人としては4人目だ。この道場で、最初の柔道団体戦の国際大会が開かれた――当然、露日両チームの。柔道場のあった建物は現存しており、最近、そのとなりにオシェプコフと、その友人で好敵手であった苫米地英俊、そして柔道創始者の嘉納治五郎の銅像が建立された

 

クラスノヤルスク

「ノーネクタイの」ボリス・エリツィン大統領(当時)と橋本龍太郎首相の会談=アレクサンドル・センツォフ、アレクサンドル・チュミチョフ/タス通信「ノーネクタイの」ボリス・エリツィン大統領(当時)と橋本龍太郎首相の会談=アレクサンドル・センツォフ、アレクサンドル・チュミチョフ/タス通信

 1997年11月、 東シベリアのクラスノヤルスクで、日露両国の歴史で初めて、「ノーネクタイの」ボリス・エリツィン大統領(当時)と橋本龍太郎首相の会談が行われた。9月にウラジオでプーチン大統領と安倍首相がファーストネームの「ウラジーミル」と「シンゾー」で呼び合うことに決めたが、これは、先達がクラスノヤルスクで「リュー」と「ボリス」と呼び合った伝統を受け継いだものだ。

 リューとボリスは、エニセイ川で釣り糸を垂れながら、クリル諸島(北方四島)の問題について話した。魚はリューのほうがたくさん釣り上げたが、領土問題は結局動かなかった。

 エリツィンも橋本も故人となったが、我々が目にしたように、伝統は生きている。間もなくプーチン大統領と安倍首相は、首相の故郷、山口県で会談することになる。当然、会談は「ノーネクタイ」になり、先人が解決できなかった問題について話し合うことになるだろう。だが、その交渉の結果に関係なく、世界地図にはもう一つ、露日関係史を画する興味深い地点が現れることとなる。

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