ニコライ2世、家族と一緒に=写真提供:ロシア通信
旅行の目的
全ロシアの皇帝ニコライ2世は、シベリアと極東を訪れた最初で最後のロシア皇帝だった。即位する数年前に彼は、鉄道で1万5千キロ、海路で2万2千キロを含む、合計5万1千キロを290日かけて旅した。ピョートル大帝が1697年から1698年にかけてヨーロッパをお忍びで視察してから、様々な地域と国を訪れる長い視察旅行はロシアの皇太子にとって重要な修行の一部となっていた。
ニコライ2世の父、アレクサンドル3世がシベリア鉄道建設を決めた事が、この旅に拍車をかけた。アレクサンドル3世は、ウラジオストクの起工式典に皇家の者を出席させたかった。また、ニコライ自身が中国を通ってアメリカへ行きたかったという説や、ニコライの父が、息子をマリインスキー劇場のバレリーナの愛人と別れさせたかった為に旅に出した、という説もある。いずれにせよ、この旅を通じて、世界の人々や地域にロシア正教をもたらしたいというロマノフ家の思惑があった。
旅行は参謀本部と聖シノド(ロシア正教会の聖務会院)により計画された。皇太子と側近達は1890年10月23日(旧暦)に、サンクトペテルブルク近郊のガッチナの離宮から旅立った。主な側近は、皇太子の友人で今回の旅の記録係を務めたエスペル・ウフトムスキー公爵と、皇太子の病弱な弟、ゲオルギー大公だった。太陽と海の風によりゲオルギー大公の健康状態が改善する事が期待されていた。
旅の始まり
一行はまず鉄道でウィーン、そしてトリエステへ向かった。トリエステでパーミャチ・アゾーヴァ装甲巡洋艦に乗り換えた。次に停まったのはギリシャの港町ピレウスだった。そこで皇太子はおじであるギリシャ王ゲオルギオス1世に会い、その次男、ギリシャ王子ゲオルギオスが旅の一行に加わった。一行はエジプトへ向かい、ニコライ2世らはナイル川やピラミッドを観光し、船はスエズ運河を通過した。
次にインドに向かい、12月11日にボンベイ(現ムンバイ)に到着した。ここでニコライの弟が風邪をこじらせ、帰路についた。インドで皇太子はタージ・マハルや黄金寺院(ハリマンディル・サーヒブ)を訪れた。ラージャ達と会い、狩りに行ったものの虎を撃ち損ない――同行した二人の王子はそれぞれ虎を撃ったが――今日ロシアの博物館で展示されている数々の美術品を買った。皇太子はインドの暑さに耐えられず、また当時ロシアと仲の悪かったイギリスの兵士が多くいた為、インドが気に入らなかったと伝えられている。インド旅行は、セイロン島訪問で締めくくられた。そこで皇太子は、30頭から40頭の象と「魔神ダンサー」を使った踊りのパフォーマンスを見た。
次に一行はシンガポールへ向かい、歓待された。その後現在のインドネシアとタイを訪れ、皇太子はシャム国王ラーマ5世の賓客として一週間を過ごした。その後、中国にも寄港した。
大津事件
旅で最も話題になった出来事が起きたのは日本であった。当初、ニコライは日本観光を大いに楽しみ、手芸品などを買い、右腕に大きな竜の入れ墨を入れた。
当時日本はロシアとの関係改善を計っていたため、ニコライは歓待された。しかし、4月29日、警備を担当していた滋賀県警察部巡査の津田三蔵が皇太子に襲いかかった。津田はニコライの顔に斬りかかり、更に斬りつけようとしたが、幸い従兄弟が竹の杖で津田を倒した。皇太子は右側頭部に9cm近くの傷を負ったものの、命に別状はなかった。
事件の背景には諸説があるが、津田の排外思想が主な動機であるとされている。明治天皇はニコライのもとに駆けつけた。当時の日本はロシアに軍事的に対抗する力を持っていなかったため、ロシアが軍事行動に出る事を恐れた。天皇自ら皇太子を見舞い、更には熾仁・威仁・能久の三親王を引き連れてニコライを神戸まで見送った。
帰国
一行は5月11日にウラジオストクに到着し、式典後パーミャチ・アゾーヴァ装甲巡洋艦を後にし、ロシアを横断した。まず北のハバロフスクに立ち寄り、ブラゴヴェシチェンスクへ寄った。同地には記念碑のアーチが未だにあり、皇太子が訪れた他の都市にもある。次に訪れたのは東シベリアのネルチンスク市、チタ市とイルクーツク市であった。
次に立ち寄ったのはトムスクであった。この訪問は謎に包まれており、珍しく、記録係のウフトムスキー公爵も皇太子が夕方に何をしていたか書いていない。噂によると皇太子は、1837年にトムスクにどこからともなく現れた霊媒師のテオドル長老の庵を訪れたらしい。ちなみに、アレクサンドル1世が1825年に自身の死を捏造し、後にヒョードル・クジミッチと名乗って、トムスクで隠棲したとの説もある。
トムスクを出ると一行はスルグト、トボリスク、タラ、オムスクとオレンブルグに立ち寄った後、鉄道でサンクトペテルブルクへ戻った。
この旅行は、ロシア国内に多くをもたらした。例えば、皇太子はトムスクで一晩しか過ごさなかったが、その結果、トムスク理工大学と神学学校を設立する為の資金を与えられた。更に、トムスクの修道院の工場はその後20年間、皇室御用達となった。少なくともこの旅行では、皇太子が触れたものは全て金になった様であった。
ロシア・ビヨンドのニュースレター
の配信を申し込む
今週のベストストーリーを直接受信します。