白海の暮らしは今日でも厳しいものだ。常に北極海の冷冷たる息吹を感じる土地である。一年の半分以上は氷が張っており、残りの期間も猛烈な強風が吹き荒ぶ。今ではこの地は辺鄙な田舎のようだが、しかしずっとそうだったわけではない。18世紀まで白海の港アルハンゲリスクはロシアの唯一のヨーロッパへの窓であったが、後にその役割をピョートル1世によって建設されたサンクトペテルブルクに譲った。
白海沿岸の環境は、そこに暮らす人々に厳しい条件を要求するものだった。彼らは戦士のような強健さと耐久力を持ち合わせていなければならなかったし、不屈の精神に工夫と判断力をも兼ね備えていなければならなかった。彼らが貿易だけではなく、主に漁業で生活の糧を得ていたのは、この極寒の地で農耕をすることはほぼ不可能だからだ。
ポモールはどこから来たのか
ポモールの起源はヴェリーキー・ノヴゴロドにある。このロシアの町はその昔北方の地を治め、モスクワと覇を争っていた。ポモールの民俗学者イワン・ドゥーロフ(1894−1938)によると沿白海地方に最初に住み着いたのはサーミ人(ラップランドの民族)であり、彼らはその後フィン族に追われた。そのフィン族はスウェーデン人とカレリア人に取って代わられ、14世紀からはノヴゴロド人の支配が確立した。ドゥーロフはその著書でこう書いている、彼らは「白海の果て、この厳寒の未開の地に豊かな狩場と漁場、そして製塩の可能性を予見していたのである」と。
実際、ポモール人による漁業や造船、そして製塩が盛んに行われた。当時の開拓地は現在の地図の上にも残っている。スムスキー・ポサド(1436)、ヴァルズガ(1466)、ウムバ(1466)など多数だ。
「人々は組合を作るために志を共にする仲間を募って共同で狩猟や漁業に従事しました」。ベロモロスク(ロシアのカレリア共和国にある町)にあるポモール文化センターの郷土史家スヴェトラーナ・コシュキナの言葉だ。「彼らは白海に注ぐ川のそばに住み着いたのです」。
15世紀の中葉、ノヴゴロドの支配層は当時設立されて間もないソロヴェツキー修道院にベロモロスクの地を寄進した。しかし2世紀後、ニコンの教会改革(ラスコール)に修道院が蜂起したとき、その領地は政府に接収された。
ポモールとヨーロッパの貿易
ピョートル1世が「ヨーロッパへの窓」をバルト海を通じて切り開くまで、その窓はポモリエ(白海の南西奥にあるオネガ湾沿岸の地方)であった。ポモール人はライ麦粉や亜麻、油などを、ヨーロッパ人は魚やコーヒー、流行の布地や装飾品などを商った。ポモール人は外国の産品をアルハンゲリスクの北ドヴィナ川を利用した水運でロシア各地へと送った。
この貿易はポモールに富をもたらし、漁師たちはロシアの他の地域では高価で手が届かないような立派な家や服、生活用品などを手に入れることができた。ベロモロスクでポモールの伝統的な技術を研究・指導しているイリナ・イリイナによると、金色の糸で刺繍が施されている既婚女性の頭飾り「ポヴォイニク」(ターバンのような頭を覆う布の帽子)が多くの家庭に保存されているという。「女職人たちは一回の市で何千ものポヴォイニクのドンツェ(訳注:帽子の天井部分のこと)を売りました。150年以上前のものも保存されているんですよ」。
「この1930年代の写真には、ポヴォイニクを被ったわたしの祖母カピトリナと曾祖母のワシリナが写っています。それにこれは真珠をあしらった糸で刺繍がしてあります」そう語るのはイリナの生徒オリガだ。「わたしが付けているイヤリングはこの写真の曾祖母のものです。祖母はブレスレットも鎖付きのペンダントも持っていました。
いい暮らしをしていたんです。ポモールでは『お嫁さんが美しいほど旦那は一人前』とみなされていました。妻を着飾らせて夫は名を上げるの。ポヴォイニクに刺繍をして、夏はそれを被るんです」。
ポモールの言葉と歌
ポモールには現代のロシア人にはひどくわかりにくいであろう独特な北国の方言がある。たとえば、彼らはバルカス(ランチなどと呼ばれる小型船)のことを「カルバス」といい、鎌状の形をした砂州を「ガルブーシャ」(魚のマス)と呼ぶ。人が亡くなれば「海にとられた」と表現する。これらの言葉は民俗学者イワン・ドゥーロフによって1934年に出版された1万2000語からなる辞書のおかげでわたしたちの知るところとなった。(もっと詳しく知りたい方はこちら)
「村の人々にはまだ昔の発音が残っていて、「ア」の音が「オ」に置き換わったり、「ツ」と「チ」の音を区別せずその中間の音を使ったりしています」そう話すのはポモリエ民族合唱団代表のヴィクトル・ワシリエフだ。ほぼ半世紀にわたって彼は白海沿岸に点在する遠く離れた村々を回り、ポモールの民話を収集している。彼は多くのポモールの古い歌を彼ら自身の演奏で録音することに成功した。
「ポモールの人々はさまざまなことを歌います。愛について、風について、海について、それに仕事から帰る男たちを待つ気持ちについても。そしてポモールの歌はふつう何人かの声を合わせ、楽器の伴奏無しで、方言を残したまま歌われます」。ポモリエ民族合唱団ではヴィクトルの指導のもと、昔ながらのポモールの歌い方を守っている。
またポモールには18世紀までに成立したノルウェー人と話すための「ルセノルスク」(ロシア語とノルウェー語の中間言語)という別の言語があります。(またはMoja på tvojaという)。約400のフレーズがラテン文字とキリル文字の両方で記録され、現在に伝わっている。
たとえば、「drasvi」は「こんにちは」(露語:zdravstvui)、「kak sprek?」は「何を言っているの?」(露語:chto ti govorish)、「кak pris?」は「いくらですか?」(露語:kakaya cena)などだ。
言語学者が指摘するように、ロシア語とノルウェー語の語彙数はだいたい同じくらいであり、これは二つの言語が「ルセノルスク」の形成に同等に寄与したことを物語っている。この言葉は、ポモール人とノルウェー人との自由な交流が途絶えた1917年の10月革命後、事実上消えてしまった。
現在のポモールの暮らしは
現在のロシアでポモールを名乗る人々は3000人強いる(2010年の人口調査より)。それにもかかわらずポモール人とは誰かについて歴史家の間でもいまだに一致した見解が存在しない。独立した民族なのか、民族の下位集団なのか、それとも単にポモリエ地方に住む住民なのか。
ポモール人自身は、ポモール出身で海に暮らしているというだけではなく、今もなお血の繋がりがある人々をポモール人と考えている。
「わたしの理解では、ただポモリエ地方に暮らしている人々を指すのではなくて、ポモールの伝統的な暮らしをしている人々でなければなりません」スヴェトラーナ・コシュキナはそう語る。
「わたしの夫はヴィルマとコレジマ(どちらも白海の南西奥にあるオネガ湾沿岸の集落)の生まれですが、彼は生涯にわたって漁に出ていました。自分で漁のための網も縫い、舟も作っていました。彼の家族も親戚たちも魚のない生活など想像もできないでしょう。ポモールには、魚を食べない暮らしなど「耳がひとりでに塞がる」ものだ、という言葉があります(訳注:露語では「耳を塞ぎたくなるような、聞くに堪えない、我慢できない、あり得ない、といった意味で用いられる表現)。彼らは皆ポモール人でした。
でもわたしの子どもたちはというと全く違います。ポモールの土地で暮らし、ポモールの家族に生まれましたが、わたしは子どもたちをポモール人だとは思いません」。
どこでも同じように、今の若者たちは大きな町を目指す。しかしなお、白海沿岸には今でも伝統的なポモールの生き方を守って暮らしている集落もある。わたしたちはコレジマという古い集落の漁師の家に滞在して話を聞いた。そして、今なぜ若者たちが生まれ故郷に戻ってきているのかを知った。続きが気になる方はわたしたちのSNSにご登録を!