サンクトペテルブルクの三百年の歴史は、ある意味で人間と洪水との戦いだった。街は沼地に建設されたが、独特の地理条件によってロシアはフィンランド湾沿岸とネヴァ川の三角州と分流を支配できるようになった。時折、川が人間に復讐を仕掛け、街は恐ろしい洪水に見舞われた。川の流路を変えて一帯を灌漑するため、サンクトペテルブルクでは18世紀に新たな分流や水路が開削された。結果として19世紀初めまでに街には101の島ができた。その後水路の一部は埋められ、小さな島々は大きなものに統合されていった。
地理名称目録によれば、現在のサンクトペテルブルクには33の島がある。いくつかの堡塁から成るいわゆるクロンシュタット列島はここには含まれていないため、これを含めれば、事実上40以上の島々があることになる。
街の中心部にあるものは、厳密には島とは認識されていない。川や運河に架かる橋による交通網が発達しているためだ。例えば、サンクトペテルブルクの中心にあるシーニー(青)橋は、幅が97.3㍍もあり、聖イサアク広場の一部と見なされている。
1. 最も「先駆的」な島 ―― ザーヤチー(兎)島
街の歴史的な中核がザーヤチー(兎)島だ。1703年5月27日、まさにここにペトロパヴロフスク要塞が築かれ、これが街の定礎の瞬間と見なされている。ここには造幣局やロマノフ家の霊廟、トルベツコイ稜堡の牢獄(ロシアの主要な政治犯監獄)など、帝政期の重要施設がある。
2. 最も有名な島 ―― ワシリエフスキー島
最も世に知られた島と言えるのがワシリエフスキー島だ。数多くの文学作品に登場している。「ワシリーの島」という名称は1500年のノヴゴロドの土地台帳にはすでに記されている。現在、現地住民は「ワシカ」の愛称で呼んでいる。サンクトペテルブルク旧市街の中心部とは「ストレルカ」と呼ばれる東端部が近接しているが、ここは2本のロストラ柱を目印に簡単に見つけられる。ロストラ柱は街の大きな祭日には灯台としての役割を取り戻す。
3. 最も大きな島 ―― ベズィミャンヌイ(無名)島
ネヴァ川の三角州で最大の島は16.2平方キロメートルの広さを誇るが、運命の皮肉でベズィミャンヌイ(無名)島と呼ばれている。他の島や本土とは47本もの橋で結ばれている。この島は1769年から1780年に開削されたオブヴォードヌイ運河が完成したことで生まれた。これはペテルブルク最大の運河で、幅は最大42㍍、長さは8キロメートル以上だ。
4. 最も小さな島 ―― セールヌイ(硫黄)島
最小のセールヌイ(硫黄)島の面積はわずか0.03平方キロメートルで、橋は一本しか架かっていない。島の名称は19世紀に付けられたもので、硫黄の倉庫があったことに由来している。
5. 最も緑豊かな島 ―― 夏の庭園とエラーギン島
この称号をめぐっては2つの島が競合する。夏の庭園とエラーギン島だ。
夏の庭園は旧市街にあり、島の全領域(0.12平方キロメートル)を、あずまやや噴水、生け垣の迷路、17世紀末から18世紀初めのイタリアの巨匠の彫刻の複製がある贅沢な庭園・公園複合施設が占めている。庭園はピョートル1世の夏の住まいとして作られた。1710年から1714年にかけてここに宮殿が建てられ、ツァーリは晩年まで毎年夏はこの宮殿で過ごした。
エラーギン島は面積では夏の庭園を大きく上回るが、ここもかつて皇帝の住まいだった。最初の所有者は夫のパーヴェル1世(ピョートル大帝の曽孫)に先立たれた皇后マリア・フョードロヴナだった。エラーギン島の空間と風景の決定に携わったのは、当時サンクトペテルブルクではあまり知られていなかったイタリア人建築家カリオ・ロッシだ。改築されたエラーギン島宮殿はロシア帝国の首都における彼の最初の大作となった。
1932年、島に中央文化休息公園がオープンし、ここに運動場や遊技場、アトラクション、スポーツをテーマとした彫刻群が現れた。第二次世界大戦中、エラーギン島は大きな被害を受けた。歴史的な姿を可能な限り再建する作業は半世紀近くかかったが、20世紀末から21世紀初めにかけて活発化した。そのため現代の我々はこの庭園をロッシが手掛けたものに最も近い姿で鑑賞することができる。
6. 最もロマンチックな島 ―― ノーヴァヤ・ゴランディア(新オランダ)島
ノーヴァヤ・ゴランディア(新オランダ)島は産業建築と現代の都市空間とを有機的に結び付けている(厳密に言えば、これは2つの島が一体となったものだ)。「オランダ」という名称は、ツァーリ・ピョートル1世がネヴァ川の岸に北方艦隊を作るに当たって首都にオランダ人造船技師を招いたことに由来する。造船所の近くにある島々は海軍省が管理しており、造船用の木材の保管庫が置かれていた。
19世紀半ば、ノーヴァヤ・ゴランディアに海軍監獄の建物が建てられ、「ブトィールカ(瓶)」と呼ばれるようになった。ロシア語で「つまらないことで怒るな」を意味する「瓶に入るな」という慣用句はここから生まれたという。
2010年代、産業建築遺産は、レストランや講演場、舞台、自然風景公園を持つ流行りの公共空間となった。
7. 最もスポーツが盛んな島 ―― クレストフスキー島
伝統的にこう呼ばれているのはクレストフスキー島だ。ここにはサンクトペテルブルク最大のサッカースタジアム(およびより小さなスタジアム)、スポーツ複合施設、自転車競技場、陸上競技場、ボートクラブがある。島の大部分を占めるのがプリモルスキー(沿海)勝利公園だ。ボート、自転車、ランニングの愛好家に人気の場所で、大きな遊園地も営業している。
島のスポーツ施設としての歴史は19世紀半ばに始まる。ここで1859年にネフスキー・ヨットクラブが、1889年にサンクトペテルブルク・ボート協会が、1894年にローンテニスクラブが生まれた。
クレストフスキー島で一見の価値があるのは、FCゼニト・サンクトペテルブルクのホームスタジアム「ガスプロム・アリェーナ」だ。設計は日本人建築家の黒川紀章が担当し、開閉式の屋根を持つ(スタジアムは「宇宙船」とも呼ばれている)。ガスプロム・アリェーナでは、2020年UEFA欧州選手権や2018年サッカー・ワールドカップの試合が行われたが、ワールドカップを機にスタジアムの近くに地下鉄駅が作られ、現在はゼニト駅と呼ばれている。スポーツを行う際は約6万5000人、演劇やコンサートを行う際は最大8万人を収容できる。
アリェーナは20世紀のもう一つの壮大なスポーツ施設、キーロフ記念スタジアムの跡地に建てられた。キーロフ記念スタジアムは世界最大級のスタジアムと考えられており、最初に改築されるまでの1950年から1978年までの期間は10万人を収容できた。
8. 最も孤立した島 ―― コトリン島
ネヴァ川の三角州の島々から独立しているのがコトリン島だ。ここに要塞都市クロンシュタットがある。コトリン島と本土とはサンクトペテルブルクを洪水から守る複合施設で連結されている。2011年まで30年以上かけて作られた総距離23.4キロメートルの11の堤防だ。そして堤防の上を通る自動車道が開通した。
コトリン島の周りには多数の堡塁があり、最も集中しているのは内海の水域だ。これらの防御施設は街を海からの攻撃から守っていた。その一つ、アレクサンドル1世堡塁は、19世紀末に防御施設から外された。ここには細菌学研究所が作られ、抗ペスト血清の開発が行われた。