モスクワ郊外のチェーホフの屋敷、メリホヴォに関する10の事実

観光・自然
ヴァジム・ラズモフ
 アントン・チェーホフはこの屋敷に1892年から1899年まで暮らし、ここで最も有名な作品の数々(短編『六号室』、戯曲『かもめ』、『ワーニャ伯父さん』)を著しただけでなく、村の医者として働き、電信を開設し、いくつかの学校も建てた。

1. アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフは、専門から言えば医者だった。メリホヴォに移り住むと、彼は現地の農民に無償で医療を行い、屋敷の離れに外来診療所まで設置した。農民は常に薬が買えるとは限らなかったので、必要な薬剤を無償で提供した。また、メリホヴォの菜園には薬草栽培のための特別な区画も設けられていた。

2. 1892年のコレラの大流行はメリホヴォには及ばなかった。もしかすると、適時医療を受けていた住民の良好な健康状態が幸いしたのかもしれない。だが疫病は近隣の村々を襲い、チェーホフはそれを傍観してはいなかった。彼は志願して地区の衛生医となった。チェーホフは衛生医として26の村、4つの工場、ダヴィドヴァ・プスティニ修道院で働いた。

3. チェーホフは資産を割いてメリホヴォの3つの学校の建設を主導した。これらの教育機関は模範的と考えられていた。チェーホフが建てた学校は、天井の高い(3.5㍍)ゆとりのある木造建築だった。3校中2校は良好な状態で現存している。1970年代半ばまで校舎として利用されていた。現在は博物館に引き渡されている。ノヴォショルキ村にあるかつてのチェーホフ学校では、チェーホフの作中人物をテーマにした文学的展示品を見ることができる。この建物は1897年に建てられた。

4. メリホヴォ周辺の電信網の発展はまさにアントン・チェーホフのおかげである。作家の努力によって、地方自治会の郵便局の新しい建物が建てられた。モスクワ郵便電信管区へ請願書を出すための署名集めは1893年に始まった。それから慈善家らが建設資金の収集を企画した。郵便局が開業したのは1896年1月2日だった。1896年10月1日には電信サービスが開始した。郵便局長のA・V・ブラゴヴェシチェンスキーは郵便局での電信サービスの開始を祝う式典にチェーホフを招いた。

5. 1897年の住民調査では、アントン・チェーホフは指導監督官の仕事を引き受けた。彼は15人の調査官を率い、自らもそれぞれの家を歩いて回った。農民の家は鴨居が低く、チェーホフは背が高かったためいつも屈まなければならなかった。彼はこの仕事に疲れを感じていた。その後チェーホフは「1897年の初の国勢調査での活動」を讃えられてメダルを授与された。

6. メリホヴォにはチェーホフの友人であった画家のイサーク・レヴィタンが通った。レヴィタンは屋敷を絵に残しており、特に絵画『春のメリホヴォ』によく見える。メリホヴォでは、レヴィタンがそこに立って絵を描くのが好きだった「レヴィタン丘」を見ることができる。これは池の隣にある人工の土手だ。

7. メリホヴォにはしばしばリーカ・ミジノワも訪れた。戯曲『かもめ』のニーナ・ザレーチナヤのモデルとなった女性だ。リジア(リーカ)・ミジノワは、チェーホフの妹のマリアとともに女子ギムナジウムで教鞭を取っており、マリアが兄に彼女を紹介したのだ。チェーホフとリーカの間には信頼関係が築かれ、彼らはよくメリホヴォの「恋の並木道」を散歩した。

8. メリホヴォで起きた出来事の多くは、作家の父であるパーヴェル・チェーホフの日記によって再現することができる。彼は日記において日常の出来事の詳細に力点を置いている。パーヴェル・チェーホフは零落した第三級商人で、農奴制的支配から金で脱することができた農民の家に生まれた。

9. チェーホフはメリホヴォに新しい花や木を持ち込み、屋敷の整備に気を使った。彼はひと春で100株以上のライラックを植えた。客人は特に、咲き誇るライラックや果樹が香りを放つ春にメリホヴォを訪れることを好んだ。より温暖な地方に特徴的な植物(アスパラガス、アーティチョーク、コールラビ)が栽培されていた菜園を、チェーホフは「南フランス」と呼んでいた。

10. メリホヴォのA・P・チェーホフ博物館の初代館長は、ユーリー・コンスタンチノヴィチ・アヴジェエフだった。彼は1952年から1987年まで館長の職を務めた。彼の下で、第二次世界大戦で被害を受けたものを含め、屋敷のすべての建物が再建され、作家の資料、原稿、所有物の膨大なコレクションが収集された。ユーリー・アヴジェエフ自身も才能ある画家だった。彼は多くの風景画や肖像画を描いた。

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