20世紀初め、ロシアの化学者で写真家のセルゲイ・プロクディン=ゴルスキーは、カラー写真を撮る複雑な技術を開発した。彼は、ロシア帝国の多様性を記録するために、この新しい方法を使おうと思い立ち、1903年から1916年にかけて全国各地に数多くの旅をした。
プロクディン=ゴルスキーのプロジェクトは、交通の便、ロジスティクスの面で、帝国運輸省から支援を得た。同省は、水路での彼の写真撮影と鉄道旅行を容易にしてくれた。そのおかげもあり、大河ヴォルガ沿いの彼の旅は、多くの実りをもたらしたことが後に分かった。
彼が1910年の夏に訪れた多くの川沿いの街のなかで、最も美しいものの一つは現在、トゥターエフ(人口は約4万人)として知られる古都だ。ヤロスラヴリの北西40kmのところにある。ヴォルガの両岸にまたがる都市である。
1822年以前には、両岸の区域はそれぞれ、右岸がボリソグレブスク、左岸がロマノフという名の別々の町であった。1822年に、両者はロマノフ=ボリソグレブスクと統一された。トゥターエフという現在の名前は、赤軍兵士を記念して、1918年につけられた。この兵士は、付近のヤロスラヴリで、ボリシェヴィキ政権に対する反乱の鎮圧のさなかに戦死した(都市名をロシア革命前に戻そうという試みは今のところない)。
交易と分離派教徒の拠点
ボリソグレブスクの起源は明らかに、1238年のモンゴルによるヤロスラヴリ制圧よりも前にさかのぼる。その名は、地元の教会の名にちなむ。その名はまた、11世紀初め、キエフ大公国の内紛で非業の死を遂げた、同国初期の二人の聖人に由来する。
15世紀までに、この町は、ボリソグレブスク漁業区と呼ばれるようになっていた。1777年には、エカテリーナ2世の地方行政改革により、正式にボリソグレブスク市として知られるようになる。
17世紀初めにはボリソグレブスクは、リューリク朝断絶後の「大動乱(スムータ)」の時代に、略奪に遭ったが、17世紀後半にはヴォルガ川の交易で繁栄した。
とはいえ、これは1660年代に始まる正教会の分裂による深刻な精神的、政治的危機の時代でもあった。正教会の改革に異を唱えた分離派(古儀式派)は、ボリソグレブスクをかなり大きな拠点としていた。そこで公式の正教会は、その栄光を示すに足る建築物を建立しようと望んだようだ。
こうして、この街の繁栄と宗教的な動機があいまって、壮大極まる救世主復活大聖堂の建設へとつながった。
その複雑な構造の原型は、1652年建立のレンガ造りの教会だ。それは、木造の「聖ボリスとグレブ聖堂」の敷地内にあり、イコン「スモレンスクの聖母」(このイコンは、オディギトリア〈導く女の意味〉型である)に捧げられていた。
1670年、この「スモレンスク聖母イコン教会」が一部崩壊したことが、救世主の復活に捧げられた巨大聖堂の建設のきっかけとなった。その1階部分は、「スモレンスク聖母イコン教会」の壁および、そのイコンを掲げていたイコノスタス(聖障)から構成されていた(ロシア正教の教会にはしばしば複数のイコノスタスがあり、それぞれが独自のイコンに捧げられている)。
この1階部分は、再建がまだ進行中であったとき、勤行を執り行うのに役立った。そこにはもう一つのイコノスタスがあり、それは、ローマ帝国皇帝セプティミウス・セウェルス(在位193~211)の治世に殉教した聖ハラランボスと洗礼者ヨハネに捧げられている。
1670年代末に、教会の建築群全体の建設が完了したが、その後も1階部分は、冬季の勤行のために引き続き使用された。1階部分の暖房が2階部分より容易だったためだ。2階部分は「夏の教会」(すなわち暖房されない教会)として知られる。しかし2階には、キリストの復活に捧げられた主要なイコノスタスと、ボリスとグレブに捧げられた第二のイコノスタスがある。これはかつての木造教会を想起させるものだ。
教会建築の古典的例
救世主復活大聖堂は、1678年に完成し、ヴォルガ川を見下ろす、優美で誇り高いランドマークとなった。2007年に筆者が川の方から撮った写真は、夏に木の葉が生い茂っても、大聖堂とその上にそびえる丸屋根がはっきりと見えることを示している。
この大聖堂の意匠は、ロストフとヤロスラヴリの教会群に関わる17世紀後半の装飾の様式を反映し、さらに発展させている。
実は、この大聖堂は、ロストフ府主教イオナ・シソエヴィチ(1607年頃~1690年)の後援を得て建設された。彼の支援は、17世紀後半にこの地域全体で教会建築が栄えたことにつながった。
聖堂の基本的な構造は、正方形であり、いくつかの大きな窓によって形作られている。その窓は、黄色の漆喰の表面に白色で塗装された装飾柱で区切られている。屋根の軒蛇腹(コーニス)の下には、主にキリストの生涯に関する絵画が飾られた半円形の装飾的な切り妻壁がある。
屋根は金属製で、伝統的な様式で5つの丸屋根(いわゆる「ねぎ坊主」型のドーム)となっている。丸屋根は、深緑色に塗られた金属板で葺かれている。各ドームの頂点は金色の十字架を戴き、中央のドームが最も高い。各ドームは、盛り上がった円筒状の部分の上に置かれている。円筒部分は、その下の壁にある化粧漆喰の装飾をしっかり反映している。典型的なヤロスラヴリ様式では、円筒部分、丸屋根、十字架の高さは、それらが乗っている主な構造物の高さに等しい。
これらすべての装飾のために、主要構造物の壁の高さよりも、北、西、南のファサードに取り付けられた壁画のほうが高くなっている。
アーケードとなっている回廊の窓の間のスペースには、くぼんだ装飾用の正方形(シリンカ)があり、その多くは陶製タイルを含んでいる。
北と南の回廊の東端は、それぞれ礼拝堂になっており、北の礼拝堂は聖ペテロと聖パウロに、南のは聖ニコライ(ミラのニコラオス)に捧げられている。
一階部分の上方にある壮麗な回廊からは、階段で西と南の地面に降りられる。そこにはポーチがあり、この壮麗な教会の他の部分と比べてもとくに精巧に装飾されている。地上には、上部の石積みの構造を支える巨大なアーチがある。南側には、大聖堂の正門があり、これは、正方形の主要構造物に面している。また、17世紀末に建てられた独特の「テント型」の塔をもつ鐘楼がある。
聖なる記念碑を守る
この壮大な建築は、ファサードに複雑な装飾が施されており、1910年に北と西の方向からプロクディン=ゴルスキーによって撮影されている。しかし残念ながら、アメリカ議会図書館にある彼のコレクションには、それらのオリジナルのガラス板は含まれていない。
その運命は不明だ。おそらく、第一次世界大戦とロシア革命の激動の時代に損なわれてしまったのだろう。しかし、プロクディン=ゴルスキーは、3枚のガラスネガのマゼンタ(赤紫色)の部分からコンタクトプリントを作成していた。これらのモノクロプリントは、救世主復活大聖堂の保存状態に関する貴重な情報を提供してくれる。
筆者の写真は、1992年と1997年に北と西の方向から撮影したものだが、ほとんど変化を示さず、ソ連時代にも奇跡的に保存されてきたことを証している。最悪の宗教弾圧の期間もここには信者が訪れ続けた。
聖職者の多くは、1930年代に殺害されたり、流刑先で死んだりしたが、信者たちは、ここを訪れることをやめず、信仰に忠実であり、この神聖な記念碑を断固として守ってきた。学者たちもまた、その独自の美的価値の研究に協力した。
プロクディン=ゴルスキーが大聖堂の内装を撮影したという記録はないが、ヤロスラヴリも含めた、ヴォルガ沿いの教会に見る、17世紀後半の壁画の最高傑作がいくつか撮られている。「夏の教会」と回廊の内装は、ヤロスラヴリのイコンの大家、ドミトリー・プレハーノフとフョードル・カルポフによって、建設直後の1679~80年に描かれている。
ソ連時代を比較的無傷で生き延びてきた救世主復活大聖堂は、巡礼だけでなく地元民も、奇跡的な治癒力を持つとしている。この名所の超越的な美を嘆賞する喜びは、おそらくすべての人にとって癒しとなるだろう。
プロクディン=ゴルスキーによる帝政時代のカラー写真
20世紀初め、ロシアの写真家のセルゲイ・プロクディン=ゴルスキーは、カラー写真を撮る複雑な技術を開発した。彼は、1903年から1916年にかけてロシア帝国を旅し、この技術を使って、2千枚以上の写真を撮った。その技術は、ガラス板に3回露光させるプロセスを含む。
プロクディン=ゴルスキーが1944年にパリで死去すると、彼の相続人は、コレクションをアメリカ議会図書館に売却した。21世紀初めに、同図書館はコレクションを電子化し、世界の人々が自由に利用できるようにした。
1986年、建築史家で写真家のウィリアム・ブルムフィールドは、米議会図書館で初めてプロクディン=ゴルスキーの写真の展示会を行った。