新旧のカラー写真で見る救世主ボロジノ修道院:絶望から諦観にいたる、ある女性のドラマ

 救世主ボロジノ修道院は、1812年に露仏両軍が激突した大会戦に因んでいる。戦死した夫を悼んで妻が建てた聖堂は、今やロシアの一つの象徴となった。

救世主ボロジノ修道院、北東の隅。左は、ウラジーミルの聖母イコン修道院および大聖堂。前景は、第2擲弾兵師団の記念碑。2012年8月21日。

 20世紀初め、ロシアの化学者で写真家のセルゲイ・プロクディン=ゴルスキーは、カラー写真を撮る複雑な技術を開発した。同氏は、写真について、教育と啓蒙の一形態という考えをもっており、それは、中世建築の写真でとくにはっきりと示された。

 ボロジノ村は、プロクディン=ゴルスキーがこのときに撮影した一連の場所の一つ。ここを彼は、1911年の夏に訪れている。1812年のナポレオンのロシア遠征(祖国戦争)から100周年を迎えるにあたり、この大事件に関連した場所を記録するプロジェクトが立ち上げられた。彼の訪問は、その一環でもあった。

 1812年9月7日(ユリウス暦8月26日)、ボロジノの平原で、露仏両軍が激突し、大会戦を戦った。プロクディン=ゴルスキーはこの出来事に関連した建物や史跡を撮影している。私がこれらの場所を撮った写真は、会戦のほぼ2世紀後の2012年8月下旬に撮影されたものだ。

救世主ボロジノ修道院、北東の隅。左から、ウラジーミルの聖母イコン修道院および大聖堂、前駆授洗イオアン(洗礼者ヨハネ)斬首記念教会。1911年夏。

露仏両軍が雌雄を決した大会戦

 ボロジノの会戦は、レフ・トルストイの長編『戦争と平和』における比類なき壮大な描写でよく知られているだろう。「モスクワ河畔の戦い」としてフランス人に知られている、この会戦には、両軍合わせて、25万人前後の将兵が参加し、約7万5000人の死傷者を出した(正確な数字の算出は難しい)。ナポレオン戦争を通じて最も凄惨な戦いであったと考えられている。

 フランス軍は、戦術的勝利を収めた(すなわち、戦場を支配した後で前進し、モスクワを占領した)。しかし、総司令官ミハイル・クトゥーゾフ率いるロシア軍を撃滅して、有利な条件で講和に持ち込むというもくろみは実現できなかった。

 なるほど、ボロジノの会戦の後、ロシア軍は後退したことで、モスクワの明け渡しを余儀なくされ、それは大火でほぼ灰燼に帰することになる。だが、フランス軍による、ロシアのかつての首都の占領は、ロシアの敗北をもたらさず、逆に、ナポレオンの「大陸軍」の壊滅を招来させた。

1912年に建立されたムーロム歩兵連隊の記念碑。この連隊は、 アレクサンドル・トゥチコフ将軍が指揮した。同連隊の反撃はここで始まり、現在、救世主ボロジノ修道院のある位置で終わった。2012年8月21日。

 ロシアでは、ボロジノの会戦の跡は、歴史の大舞台であり、国の史跡として保存されている。古戦場の中心には、救世主ボロジノ修道院がある。ここは、「自印聖像」でも知られている(自印聖像は、イエス・キリストが布に自身の顔を写したものと伝えられる正教会のイコンで、「手にて描かれざるイコン」などとも呼ばれる)。

 この修道院の起源も、ボロジノの会戦と関係がある。マルガリータ・トゥチコフは、34歳の若さで戦死した最愛の夫、アレクサンドル・トゥチコフ将軍(少将)を追悼するため、教会建立を思い立った。激戦のさなか、トゥチコフ将軍は、レーヴェリ(タリンの旧名)連隊、ムーロム連隊などを指揮し、フランス軍が奪った戦術拠点「セミョーノフスキー角面堡」を奪回すべく猛攻撃をかけた際に戦死を遂げた。

救世主ボロジノ修道院、北東の隅。ウラジーミルの聖母イコン大聖堂。右は、1985年に復元された「バグラチオンの突角堡塁」のセミョーノフスキー角面堡。ここでアレクサンドル・トゥチコフ将軍は戦死した。2012年8月21日。

 とくに見る者に痛ましい思いを抱かせるのは、修道院の北東約180mのところにある、ムーロム連隊を記念した、荒い花崗岩のモニュメントだ。まさにこの地点から、トゥチコフ将軍は最後の決死の攻撃をかけた。

 プロクディン=ゴルスキーは、セミョーノフスコエ村から北東方向にかけて、平原を撮影している。私もまた2012年に同様の写真を撮った。

 セミョーノフスキー角面堡への攻撃は、多大な犠牲を出し、トゥチコフ将軍の遺体も見つからなかった。マルガリータ夫人は、同年10月にこの地を訪れる許可を得たが(モスクワからのフランス軍の撤退は10月半ばに始まった)、未だ死屍累々たる中で夫の遺体を発見することはできなかった。

救世主ボロジノ修道院の北門および前駆授洗イオアン(洗礼者ヨハネ)斬首記念教会。北東の景観。2012年8月21日。

 マルガリータ夫人は、落胆し切って自分の屋敷に戻った。彼女が心を病むのではと危ぶんだ人もいたほどだったが、夫の死に場所の近くに記念碑を建立するという考えが、彼女の脳裏に浮かび、それが、彼女が絶望の極から抜け出す助けとなった。

    1817年、戦場跡に教会を建てる彼女のアイデアは、皇帝アレクサンドル1世の母である、マリア・フヨードロヴナ皇太后からの援助を受けることとなった。マルガリータ夫人は、自分のダイヤモンドを売って建設資金を調達。1818年に建設が始まった。アレクサンドル1世も、教会完成のために1万ルーブルを下賜。教会は1820年に竣工し、トゥチコフが指揮したレーヴェリ連隊のイコン「自印聖像」により、聖別(成聖)された。

救世主ボロジノ修道院、北の景観。北の壁、前駆授洗イオアン(洗礼者ヨハネ)斬首記念教会とウラジーミルの聖母イコン大聖堂(背景)。1911年夏。

    マルガリータ夫人はまた、ここに小さな家を建てた。レーヴェリ(タリンの旧名)付近の自領から愛息ニコライ(愛称コーコー)とともに当地を訪れるときに滞在できるようにと。

 だが、ニコライは病弱で、1826年にわずか15歳でこの世をさった。同じころ、夫人の父、ミハイル・ナルイシキンも死去。さらに、夫人の実弟、ミハイル・ミハイロヴィチ・ナルイシキンも、1825年末のデカブリストの乱に連座して、シベリア流刑に遭う。

個人的悲劇から生まれた名刹

 このとき、相次ぐ不幸に見舞われたマルガリータ夫人は、上流社会から身を退き、召使にも暇を出した。そして、息子ニコライが葬られた救世主ボロジノ修道院の近くの小さな家に移った。時とともに、 未亡人や孤児など身寄りのない女性たちがここに集まり、小さな宗教的コミュニティが生まれた。これは、1833年に正式に宗務院によって認められた(宗務院はシノドともいう。当時、ロシア正教会を統括する最高機関であった)。

救世主ボロジノ修道院、北東の景観。北の壁、前駆授洗イオアン(洗礼者ヨハネ)斬首記念教会とウラジーミルの聖母イコン大聖堂。2012年8月21日。

 1836年、マルガリータ夫人は修道女見習いとなり、修道名メラニヤを与えられた。また1838年、彼女を中心とする宗教的コミュニティは、府主教フィラレートのイニシアチブで、修道院に昇格する。

 皇帝ニコライ1世は、1839年7月に修道院を訪れ、マルガリータ夫人と会見し、深く心を動かされた。ツァーリの2万5000ルーブルの下賜により、修道院の壁が、礼拝堂付きで、レンガで造られた。

 1840年、マルガリータ夫人は、マリアの修道名を与えられて修道女となり、修道院長を務めることとなる。そこにはすでに約200人の修道女、信徒がいた。彼女は1852年に亡くなるまで、積極的に奉仕を続けた。彼女の亡骸は、救世主修道院で、亡き息子の隣に葬られた。

ボロジノの古戦場におけるロシアの将兵に捧げられたメイン・モニュメント(ピョートル・バグラチオン将軍の墓を含む。これは1839年に建立され、1932年に破壊された)。1911年夏。

 この頃までに、ミハイル・ブイコフスキーの設計で、修道院の大聖堂の建設が始まった。1859年に、イコン「ウラジーミルの聖母(ウラジーミルの生神女)」により聖別が行われた。このイコンは、1395年に奇跡的に大征服者ティムールをロシアの地から退去させたと信じられているものだ。

 1870年代初めには、前駆授洗イオアン(洗礼者ヨハネ)斬首記念教会が、ボロジノの会戦で斃れた兵士の追加の記念碑として建てられた。

 さらに、1912年の会戦100周年の準備として、会戦でロシア軍の主要な堡塁の一つであった「バグラチオンの突角堡塁」(勇将ピョートル・バグラチオンに因む通称)が、修道院の壁の中とその外に再現された。

ボロジノの古戦場におけるロシアの将兵に捧げられたメイン・モニュメント(1987年に再建)。2012年8月21日。

 19世紀後半になると、救世主ボロジノ修道院は、ロシアの勇武を象徴する名刹となっていた。作家レフ・トルストイは、『戦争と平和』執筆の下調べの一環として、1867年9月に修道院を訪れ、宿舎に泊まっている。

 ボロジノの会戦の史跡の写真

 プロクディン=ゴルスキーは、ボロジノの写真を何枚か撮っているが、修道院は北側から撮影している。前景には野菜畑があり、几帳面に栽培されている。その背後には、巨大な聖ウラジーミル聖堂が見える。筆者も、会戦200周年に向け、この大聖堂の修復が完成に近づいていた2012年に、同様の写真を撮っている。

ボロジノの平原における戦車T34のモニュメント。第5軍の将兵を記念。 この部隊は、モスクワに迫るドイツ軍を迎え撃った(1941年10月12~18日)。左は、スモレンスクの聖母のイコン教会の丸屋根。2012年8月21日。

 プロクディン=ゴルスキーはまた、主要な戦場となった場所の記念碑である巨大なオベリスク(高さはほぼ30m)を撮影した。これは、会戦に参加した全ロシア軍将兵に捧げられたメインのモニュメントである。

 このモニュメントは、建築家アントニオ・アダミニの意匠だ。1839年7月に皇帝ニコライ1世の臨席のもとで除幕式が行われた。これには、会戦で負傷し間もなく亡くなった名将ピョートル・バグラチオンの墓も含まれている。バグラチオンの遺骨は、1839年にここに改葬された。

 1932年、オベリスクは、ソ連当局により爆破された。当局は、祖国戦争(ナポレオンのロシア遠征)の記念碑には否定的だった。1930年代初めには、そうしたモニュメントは、帝政の遺物で、正教会と密接に関連するものとみられていたからだ。このとき破壊された祖国戦争の記念碑、モニュメントには、モスクワの救世主大聖堂も含まれる。

救世主ボロジノ修道院。鐘楼から古戦場を見下ろす。ここでフランス軍が、「バグラチオンの突角堡塁」を攻撃した。1911年夏。

 しかしこうした否定的な態度は、独ソ戦(大祖国戦争)が始めると一転する。ボロジノの平原は再び侵略者の攻撃するところとなる(1941年10月)。こうした状況を受けて、最初の愛国的戦争(祖国戦争)の精神が、モスクワ防衛のために大いに喚起、鼓吹される。

 その現われが、メインモニュメントから坂を下ったところにある、台座上の戦車T-34だ。ボロジノ平原のこの部分を撮った私の写真には、彼方の背景に、スモレンスクの聖母イコン教会の優美な姿も見える。

 ボロジノのオベリスクは、会戦175周年に向けて、1987年に再建された。バグラチオンの墓も復元され、65の骨片が改葬された(1932年に破壊された際の瓦礫のなかから見つかったもの)。

 私の写真は、会戦200周年の前に改修されたモニュメントを示している。

 今日もボロジノ平原は、1812年にここで展開したロシア英雄叙事詩の不朽の力を思い起こさせる。

救世主ボロジノ修道院。前駆授洗イオアン(洗礼者ヨハネ)斬首記念教会、南の景観。右は、第3歩兵師団の記念碑。同師団は、ピョートル・コノヴニーツィン将軍が指揮し、「バグラチオンの突角堡塁」を守った。2012年8月21日。

 20世紀初め、ロシアの写真家のセルゲイ・プロクディン=ゴルスキーは、カラー写真を撮る複雑な技術を開発した。彼は、1903年から1916年にかけてロシア帝国を旅し、この技術を使って、2千枚以上の写真を撮った。その技術は、ガラス板に3回露光させるプロセスを含む。

 プロクディン=ゴルスキーが1944年にパリで死去すると、彼の相続人は、コレクションをアメリカ議会図書館に売却した。21世紀初めに、同図書館はコレクションを電子化し、世界の人々が自由に利用できるようにした。

 1986年、建築史家で写真家のウィリアム・ブルムフィールドは、米議会図書館で初めてプロクディン=ゴルスキーの写真の展示会を行った。

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