「4月に東京ではサハリンと日本の若手写真家による写真展が開かれました。初日にオープニングセレモニーがあったのですが、そのときにロシアの写真家たちと知り合ったんです。多くの日本人にとって、サハリン、とりわけ南部は失われた日本の領土であり、その時代のことを知ろうとする人もたくさんいます。歴史を知ることはもちろん大事なことですが、わたしにはあれから70年余りが経った今、そこでなにが起こっているのかを知ることの方が面白いのです。一体どんなところで、どんな人々が住んでいるのかこの目で見てみたいと思いました。それで島へ行き、自分の目でそれを確かめる方法がないかと調べ始めました」。サハリン・インフォsakhalin.infoに対し、オバラ・ナオブミさんはこのように述べ、つぎのように続けている。
「サハリンまで飛行機で行くのはそれほど難しくありませんでした。チケットは往復5万円ほどで買えました。これはバンコクや北京までのチケット代と変わらない値段です。それで休暇を取りました。なんとか7日取れたので、計画を立てました。“自分流に”サハリンを知るために、わたしは島を自転車で移動することにしました。どこかちょっとだけ走るのではなく、できるだけ長い距離を走ろうと思ったので、ノグリクからユジノサハリンスクまでのルートにしました。距離にして650キロくらいです。それはちょうど短期間で走破することができ、疲労で倒れないくらいの距離でした」。
「埃、泥、がたがた道のひどい揺れ。景気づけにロシアの酒を飲んだりもしました。これがなければ走りきれなかったと思います。しかしスミルヌィフの手前あたりからアスファルト鋪装の平らな道になり、そこからは楽になりました。その後の2日間で170キロ、200キロを走ることができました。もちろんいろんなハプニングがありました。ポロナイスクでは道に迷い、そこで時間をロスしました。マカロフのホテルではすべての客室が鉄道建設に携わっている労働者たちで埋まっていました。そこで1泊5,000ルーブル(およそ8,550円)のデラックスルームに泊まるしかありませんでした。しかし、その日はわたしの誕生日だったので、いい誕生日のプレゼントになりました」。
オバラさんはサハリン自動車道の激しい交通に非常に驚いたという。建材を積んだトラックが北へ向かい、木材を積んだトラックが南へ向かう。高速ですれ違うオフロードカーが多かったとも振り返る。しかしほとんどの運転手が非常に親切で、道を譲ってくれたり、微笑んでくれたり、ときには「敬意を表すために」クラクションを鳴らしたりしてくれたのだそう。
「毎日8時間から9時間、自転車を漕ぎ、本当に大変で疲れていたので、ゆっくりサハリンの人たちと交流することができたのは小さな町か村でだけでした。小さな村に行くと犬がいて、わたしを見ると吠え、少し恐い思いもしました。それからだいたい年老いた女性が道に出て来て、おまえは誰だ、どこから来たのだ、何が必要なのかと訊きました。基本的にサハリンの村に住む人々はロシア語を話さない外国人と交流するのに馴れていませんが、わたしが何を必要としているか、そしてどうやってわたしを助けることができるのか分かってくれたときには大喜びで助けてくれました。笑顔は見せてくれませんでしたが、助けてはくれました。最初の村人と話しをした後、わたしは商店を見つけ、用心深く中に入りました。ソーセージかハムと水とパンを買いました。これは日本でも、山にサイクリングに行くときに買う食料一式なのです」。
もう一つオバラさんが驚いたのは、サハリンの旅行中、一度も深刻な故障が起きなかったこと。それにとてもよいとは言えない道路で精力的に走ったにも関わらず、タイヤも無事だったという。
現在、オバラさんはオハから州都までの自転車旅行を計画しているとのこと。うまくいけば、鉄道の工事が完了する2020年に出発する予定にしている。
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