ナルィン・カラの名で知られるロシア最古の砦は、ムスリム住民が大半を占めるダゲスタン共和国の街デルベントにある。北コーカサスで最大のこの砦は、デルベントがササン朝の支配下にあった6世紀にペルシア人によって建てられた。砦の名の意味には諸説ある。その中で最も流布した説は、ナルィン・カラがテュルク諸語で“太陽の砦”を意味するというものだ。
ナルィン・カラはダグ・バルィ(“山の壁”)として知られる巨大な要塞システムの一部を成していた。このシステムには海岸から山地へ延びる全長40キロメートル以上の壁も含まれていた。ダグ・バルィは西アジアと南コーカサス地方とを北方の遊牧民から防御する施設として設計されていた。
ダグ・ベイの建設にはギザの大ピラミッドの7倍もの建材が費やされたと言われる。伝説によれば、10000人の戦士、6000人の職人、300人の建築家がこの印象的な複合施設を作り出すため懸命に働いたという。ペルシアのシャーハンシャー(王の中の王)であったホスロー1世がデルベントへ自ら足を運び建設を見守った。
しかしその後、征服者らは逆方向からやって来た。8世紀にデルベントはウマイヤ朝に攻略された。アラブ人たちはナルィン・カラの戦略的位置を評価し、北コーカサスへイスラーム教を広めるための中心地の一つとして利用した。
厚さ3メートル、高さ20メートルの壁を持つこの強力な要塞は、この地域で諸勢力がめまぐるしく入れ替わった混乱の数世紀を乗り切り、セルジューク朝およびティムール朝による壊滅的な侵略にも耐えた。ダグ・バルィの他の部分、主に長壁は薄幸で、絶えず破壊を被った。
17世紀から19世紀にはこの地域はロシアとペルシア両帝国の間の争いの種となった。1813年、長い戦争の末、デルベントとナルィン・カラ要塞はロシアの一部となった。
砦の中の建物のいくつかは独特だ。4世紀に作られたキリスト教の古い地下教会がアラブ人によって貯水槽として再利用された。泉につながるこの空間は、水の供給によって要塞があらゆる包囲戦に持ち堪えるのを助けた。
豪華絢爛な宮殿や貴族屋敷、ハンマム浴場の遺跡から、ナルィン・カラの住人の生活水準の高さや快適な暮らしぶりが窺い知れる。
砦の最も特筆すべき見どころの一つが、イスラームの神聖な儀礼の場の遺跡であるいわゆる“審判の日の門”だ。10世紀から11世紀に建てられたこの門は別世界への入り口だと信じられていた。中世の神秘主義者らはここでアッラーの声を聞くことができると確信していた。
古代都市デルベントには誇るべきものがたくさんある。ナルィン・カラ城からそう遠くない場所にロシア最古のモスクが立っている。
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