(左)ボーイスカウト、(右)ピオネール
Richards/Fox Photos/Getty Images; MAMM/MDFボーイスカウトは、ピオネールよりも早く、ロシアに現れていた。それは、1910年代後半の帝政時代だったが、革命によりその展開は妨げられた。1920 年代、ソビエト政府は、青少年に関する問題に個別に取り組むべきだと判断した。青少年組織の創設について初めて発言したのは、ソ連の建国者レーニンの妻、ナデジダ・クルプスカヤだ。彼女は、1921年11月下旬に、「ボーイスカウトについて」と題された報告をさまざまな場所で数回行った。
1922 年にピオネールが創設されたとき、実際、スカウトから借用されたものは多かった。ラッパ、太鼓、敬礼、スカウトのモットー「備えよ常に!」、そしてそれに対する応答「常に備えあり!」、団、隊、班の編成、キャンプファイヤーの伝統。そして、スカウトの緑色のスカーフは、世界革命の炎の色である赤に変わった。底辺100センチ、高さ30センチの二等辺三角形だ。
モスクワの赤の広場で行われるピオネールの入団式。1973年
Boris Kavashkin/Sputnikスカウトとピオネールのネッカチーフは、いずれも三角形だ。スカウトにおいては、それは、3つの道――自分自身へ、人々へ、神へ――を象徴するが、ピオネールでは、3つの角が、社会主義者の3世代、つまりピオネール、青年団「コムソモール」、共産党員だとされた。
ソ連の子供たちは、幼い頃からこの種のセレモニーに慣らされており、ピオネールになる前は「オクチャブリョーノク」だった(*これは、10月を意味するロシア語「オクチャーブリ」にちなむ造語で、「十月の子」を意味する)。ピオネールに加わるには、その宣誓の文言を暗記し、それなりに学校の成績が良くなければならなかった。ピオネール団には、学校の講堂または「レーニン・コーナー」で、厳粛な式典により加盟した。式典の最後に、新米のピオネールは、ネッカチーフを締めてもらう。
この意味で、首に巻いたネッカチーフは、かつて人々が胸にかけていた十字架を思わせる(これは、ソビエト政府が「廃止」した)。ピオネールのネッカチーフは神聖なものと考えられており、それをちゃんと保ち、洗濯し、アイロンがけをし、必要とあらば補修しなければならなかった。
ソ連のピオネールのネッカチーフは、素材の点では標準化されておらず、いくつかの異なる企業が製造していた。最も普及していたのは、化学繊維「アセテート」(シルクのような光沢感と柔らかさがある)をホットカットしたタイプ。つまり、端を縫わずに、半溶融状態で切断する。そのため、すぐにほつれ始めるのが難点だった。
ネッカチーフが破損したり紛失したりした場合は、自費で代わりを買う必要があった。しかも、多くの場合、誰にも内緒でそうしなければならなかった。なぜなら、年長のピオネールやリーダーがネッカチーフの紛失を知ると、「ピオネールのシンボルを粗末にしている」と非難することがあったからだ。そして、これは深刻な問題を引き起こしかねなかった。
そういうピオネールは、集会に呼び出され、そこで「問題が審議された」。ちゃんと勉強しているかどうか、ピオネールの活動に十分に参加しているかどうかなどを、根掘り葉掘り聞かれたわけだ。
ピオネールのネッカチーフは、たった一つの場合においてのみ「台無し」にすることが許された。それは、ピオネール・キャンプからの出発の日だ。キャンプで出会ったさまざまなピオネールの隊や班の新しい友人たちが、ネッカチーフにお互いに願い事や挨拶を書き、サインをしたり、太陽やハートを描いたりした。もちろん、そういうネッカチーフは長年にわたり大事にされた。
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