経験豊富な指導者であり、革命家として地下に潜伏していたレーニンは、その思慮深さから正式な国家元首の地位を他の人間に任せた。では、彼自身はどんな地位に就いたのだろうか?
レーニンの行動を理解するためには、十月革命がどのようにロシアの国家体制を根本的に変えたのかを見る必要がある。
1917年10月から11月にかけて、ペトログラード(第一次世界大戦期間のサンクトペテルブルクの呼称)には二つの政権が存在していた。一つは冬宮殿に置かれたアレクサンドル・ケレンスキーを首相とする臨時政府、もう一つはスモリニィ学院を本拠としてレフ・トロツキーが指揮を執るペトログラード軍事革命委員会である。
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ボリシェビキが臨時政府を打倒
1917年11月6日から7日にかけて、軍事革命委員会が臨時政府を糾弾する声明を発表。ボリシェビキは、中央電信・電話局を占拠し、ペテログラードの主要な通信施設を全て掌握すると同時に、ボリシェヴィキ派の駆逐艦45隻からなる艦隊が市内に入港した。
1917年11月8日未明、ボリシェヴィキは冬宮殿を襲撃し、臨時政府の閣僚たちは逮捕された。この時すでにスモリニィでは第2回全ロシア=ソヴィエト大会が開かれていた。
この大会でレーニンは二つの新たな政府機関の創設を提案する。一つは国家の最高機関として「全ロシア中央執行委員会」であり、そしてもう一つは労働者と農民による暫定政府として「人民委員会議」であった。
ソ連の正式な国家元首は誰だったのか?
臨時政府から政権が奪取された直後、ロシア帝国に代わって新国家ソヴィエト・ロシアが誕生した。1917年から1922年まで、この国家はソヴィエト社会主義ロシア共和国と呼ばれていた(訳注:この記事ではソヴィエト・ロシアはソヴィエト社会主義ロシア共和国1917〜1922を指す)。第2回全ロシア=ソヴィエト大会がその最初の代表機関であり、レーニンの提案によって創設された二つの主要政府機関のメンバーを選出した。
「全ロシア中央執行委員会」は、新国家における政府最高機関だった。立法および行政の機能が与えられ、初代議長にはレフ・カーメネフが就任し、その後をヤーコフ・スヴェルドロフ(1917〜1919)が引き継ぎ、1919年3月からはミハイル・カリーニンが議長を務めた。1946年に死去するまで、カリーニンが正式な国家元首の地位にあったのである。
「人民委員会議」は、全ロシア中央執行委員会に次ぐ最重要国家機関であり、行政執行権が与えられていた。事実上、この会議がソヴィエト・ロシアの政府であり、ウラジーミル・レーニンは人民委員会議議長に就任した。これはつまり、1924年1月21日に死去するまで、レーニンがソヴィエト・ロシアとそれに続くソ連の首相の地位にあったことを意味する。
厳密に言えば、レーニンは一度もソヴィエト・ロシアおよびソ連の国家元首にはならなかったということになる。彼は「首相」という一段低い地位に身を置くことで、膨大な書類の山にサインする、などといった国家元首に義務付けられた対外的な代表機能や行政事務を省略することができた。その代わり、レーニンは行政執行機関の長として重要な意思決定により時間を割くことができたのである。
この慣習はソ連においても続くことになる。ヨシフ・スターリンとニキータ・フルシチョフはともに、一度も正式な国家元首の地位 –– 全ロシア中央執行委員会議長(1938年まで)およびソヴィエト連邦最高会議幹部会議長(1938年〜1989年)–– を務めることはなかった。
レオニード・ブレジネフは名実ともにソ連の最高指導者となった初めての例である。彼はソ連共産党書記長とソヴィエト連邦最高会議幹部会議長を同時に務めた。