ソ連の検閲制度とは

ソ連テレビラジオ放送委員会(通称ゴステレ)のセルゲイ・ラーピン委員長は会議中(1973年)。

ソ連テレビラジオ放送委員会(通称ゴステレ)のセルゲイ・ラーピン委員長は会議中(1973年)。

レフ・ノーソフ/ロシア通信
 “危険な”書物のブラックリスト、写真の修正、芸術の統制、処刑…。ロシアの政府当局は現在、テロリストが利用できるとして、テレグラムのメッセージングアプリをブロックすることを検討している。そこで、ソ連の上層部がさまざまな情報源をいかに禁じていたか、過去の事例を調べてみることにした。

 1917年の10月革命でボリシェヴィキは、自由の擁護を標榜しつつ、ロシアの権力を握ったが、その最初の決定はというと、厳しい検閲で自由な発言を制限することだった。つまり、1917年11月初旬、ソ連政府は、報道機関に関する指令を出したのだが、それは、ボリシェヴィキの権威を批判する「ブルジョア的」な記事を出版することを禁じたものだった。

レーニンの「土地と平和に関する布告」が掲載された新聞を読んでいる農民達(1918年)。ロシア通信レーニンの「土地と平和に関する布告」が掲載された新聞を読んでいる農民達(1918年)。ロシア通信

 その後も、年ごとに政治的検閲は強化され、ヨシフ・スターリン統治下でピークに達した。 彼の死後、国家はその姿勢を緩めたが、1980年代後半にミハイル・ゴルバチョフがグラスノスチを宣言するまで、検閲は残った。

「失寵」した政治家の運命

 大ソビエト百科事典によれば、ソ連の検閲は「ブルジョア国家に存在するものとは異なり、労働者階級の利益を守ることを目的としたものである」。だが、これはかなり“大胆な”言い方だ。エリート自身の“血まみれの”利害のために検閲が利用されたことを考えるならば。これはとりわけ、スターリンの大粛清の最中に顕著だった。

 ペテルブルク労働者階級解放闘争同盟の会合(1897年2月)。この写真が撮影されて間もなく、全員が逮捕された。ナジェージダ・クルプスカヤ撮影 ペテルブルク労働者階級解放闘争同盟の会合(1897年2月)。この写真が撮影されて間もなく、全員が逮捕された。ナジェージダ・クルプスカヤ撮影

 「スターリンの政敵の物理的抹殺に続き、ありとあらゆる写真や絵から、政敵の存在の痕跡が消された」と、イギリスの歴史家、デイヴィッド・キングは、その著書『コミッサールは消えた』に書いている。

 写真の修正技師たちは、すべての写真や画像から、そうした痕跡を徹底的に取り除いた。 例えば、1936〜1938年に大粛清を組織した「内務人民委員部(NKVD)」(KGBの前身の秘密警察組織)を率いた、かの有名なニコライ・エジョフは、1939年には自身が秘密警察に逮捕され、40年に処刑された。その後、エジョフは、スターリンと一緒に写ったすべての写真から姿を消した。

 もう一人の悪名高き、NKVDのトップ、ラヴレンチー・ベリヤにも同じことが起こった。スターリンの最も信頼厚い「同志」であった彼は、1953年に庇護者スターリンが死去した後も無事で、高い地位を保っていたが、結局、処刑された。これに続いたのが、政府の市民への執拗な要求だった。ベリヤに関する記事を含む「大ソビエト百科事典」を持っていた人はすべて、この不運な男への言及がない、改訂版に換えねばならぬ、と。

歓迎されざる本

 1921年、草創期のソビエト政府は、その後数十年もの間、文学を支配する主な手段となる検閲機関、「文学・出版総局(Glavlit)」を創設した。Glavlitの検閲官は、ある書籍をソ連で出版すべきか、禁止すべきかを決めた。
 その結果としてソ連市民は、政権を批判したアレクサンドル・ソルジェニーツィンのほとんどの作品はもちろん、ミハイル・ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』、ボリス・パスターナクの『ドクトル・ジヴァゴ』を含む、今日古典とみなされている多くの本を読むことができなくなった。

 ソ連から亡命した「エミグレ作家」の作品の流通も、もちろん禁止だ。こうして市民は、例えば、二人だけ名前を挙げると、ノーベル賞作家、イワン・ブーニンとウラジーミル・ナボコフの小説が読めなくなったわけだ。

テープレコーダー「テンブル-MAG-59M」(1964年)。ロシア国立政治歴史博物館所蔵テープレコーダー「テンブル-MAG-59M」(1964年)。ロシア国立政治歴史博物館所蔵

 にもかかわらず、ソ連政府は「危険」とみなす文学作品を根絶やしにすることはできなかった。検閲に反対する人々は、禁止された作品の手作りのコピーを配布。ソ連では、これは、「サミズダート(自主出版)」と呼ばれた。その結果、読者は数多くの違法な本を楽しむことができた。

現代美術の場合

 1953年~1964年にソ連の指導者だったニキータ・フルシチョフは、スターリンよりはリベラルで、1956年の秘密報告で抑圧的な政策を批判したりしている。ロシアの歴史家レオニード・カツヴァによれば、フルシチョフは芸術におけるイデオロギー上の検閲を廃止しようと考えていたのだが…気が変わった。

画家のアヴデイ・テル=オガニャンとユーリー・パライチェフ(タガンログ、1988年)。アヴデイ・テル=オガニャンのアーカイブ画家のアヴデイ・テル=オガニャンとユーリー・パライチェフ(タガンログ、1988年)。アヴデイ・テル=オガニャンのアーカイブ

 フルシチョフの決定に影響を与えた要因の一つは、アヴァンギャルド美術を見たことだ。若手アーティストによる展覧会「新たな現実」を見て、フルシチョフは、その“非現実的な”絵画様式に激怒し、「ソビエト市民にはこんなものは必要ない! 我々は君たちに宣戦布告する!」と叫び出した。

 フルシチョフに続くレオニード・ブレジネフ(1964~1982)の時代も、国家は、社会主義リアリズムの枠外で活動する芸術家を抑圧し続けた。例えば、1974年、アヴァンギャルド芸術家たちがモスクワのはずれで、当局の許可を得ずに自主的に野外展覧会を開催したところ、政府は、ブルドーザーと散水車によって展覧会を徹底的に破壊した。この事件は、「ブルドーザー展覧会」として知られている。

西側のラジオ放送

 冷戦時代、西側とソ連は、「別の視点」を提供することで、双方の市民に影響を与えようとしていた。1946年、BBCがソ連市民にラジオ放送を開始。それから数年の間に、「ボイス・オブ・アメリカ」、「ラジオ・リバティー」、「ドイツ・ウェルレル」が続いた。

 当然のことながら、クレムリンはソ連市民に干渉しようとしている西洋のメディアに不満を募らせ、外国の放送局が使用するラジオ周波数を妨害し始めた。リトアニアのラジオ・ジャーナリストであるリマンタス・プレキス氏によれば、ソ連は世界で最も強力かつ広範囲をカバーできる、「アンチ・ラジオ」システムを持っていた。

 しかし、そのシステムにさえ、“亀裂”が生じた。ジャズやロックのほか「海外の声」や「別の意見」を聞けるようにチューニングしたいと思った人は、うまい方法を見つけた。結局、1988年にミハイル・ゴルバチョフが、西側のラジオ局への妨害を正式に停止した。

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