国中がクルスク号の事故について知ったのは8月14日午前。「バレンツ海で事故が発生。潜水艦は着底」と通信社が伝えた。北方艦隊司令部はこの日、乗組員とは交信があり、暫定的な調査結果によると故障が発生したと発表。深水救助艇は事故後、現場に赴き、クルスク号とのドッキングを試みた。だが海流の強さ、視界不良、潜水艦の傾きにより、救助は思うように進まなかったという。
外国の専門家の支援を受けてハッチを開けられたのは、8月21日のことだった。2002年、事故の犯罪証拠はなかったとして、刑事事件の捜査は打ち切られた。捜査の結論は、欠陥のある過酸化水素系魚雷の爆発および火災による弾薬の爆発。
「息子は乗っていないとばかり」
この事故で亡くなったアンドレイ・パナリン上級中尉の母のリディヤさんは、娘のオリガさんを指しながらこう話した。「息子が誰と似ていたか知りたいなら、この子よ。瓜二つ」
パナリン一家は当時、アンドレイさんがチェチェン、オセチア、またはアブハジアに送られるのではないかと、とても不安に思っていた。「混沌とした時代」、この可能性は高かった。だがアンドレイさんは幸か不幸か、北方艦隊のヴィジャエヴォ村に配属された。クルスク号が拠点とし、最後に出港した場所だ。
パナリン一家はニュースで事故を知った。この時はまだ、誰もこれを悲劇だとは言っていなかった。そして、アンドレイさんがクルスク号に乗っていたことも知らなかった。
「息子が『ヴォロネジ』に乗っているものとばかり思っていて。これはクルスク号に似た潜水艦でちょっと古いだけ。一応いろいろ電話をかけてみたら、アンドレイはクルスク号にはいないって話だった。だけど乗っていたってわかって、すべてを投げ捨てて、8月19日にヴィジャエヴォ村に行った」とリディヤさん。
「実際のところ、全員生きてるだろうって期待して行ったの。アンドレイを連れてきて、支えたかっただけ」とオリガさん。
2000年10月25日、潜水夫によって、船尾の第9コンパートメントから12遺体が引き揚げられた。アンドレイさんがいたのは第4コンパートメント。アンドレイさんや他の遺体が引き揚げられたのは1年後のことだ。3人の遺体は結局発見されなかった。リディヤさんは1人で遺体の確認に行った。
「乗組員は生きてるって言われて」
ソフィヤ・ドゥトコさんはサンクトペテルブルクのマンションの部屋で、書籍「クルスク号~全員の名前を覚えている」を手に持つ。この書籍を出版するため、何年もかかってお金を集めた。退役潜水艦乗組員も支援してくれた。「記憶が一番大切。乗組員が忘れられないように奔走しているの」とソフィヤさん。
明るい部屋の壁には息子の上級艦長補佐のセルゲイさんの写真がかけてある。廊下には中身が入ったままのスーツケースが置いてある。ソフィヤさんと他の17人の遺族は、ヴィジャエヴォ村から戻ったばかり。ヴィジャエヴォ村ではオーケストラに迎えられた。遺族の一部はソフィヤさんのマンションに隣接するマンションに暮らしている。当時、大統領令で、遺族にはサンクトペテルブルクの新しいマンションが与えられた。
ソフィヤさんは事故が起きた時のことを嫌々ながら思い出す。「将校館に集められて、潜水艦との交信はある、乗組員は生きている、酸素は補給されていると、ずっと言われていた」
捜索の結果は納得できるものではなかった。ソフィヤさんはいまだに、捜索に時間がかかりすぎた、「ロシアでは人よりも秘密が守られるため」に、外国からの支援受け入れを決めるまでに時間がかかりすぎた(複数の国が支援を申し出てから3日後に受け入れた)、と思っている。事故直後にクルスク号から乗組員を救助することは可能だったのか否か、という問題はかなり前に消えている。「アンドレイ・ボリソフさんのメモは未亡人に渡されなかった。未亡人は訴訟を起こしたのに。でも、メモの日付が8月15日だったことは知った。つまり、8月15日までは生きていたということ」とソフィヤさん。
水深110メートルで活動
ロシア連邦海軍第328遠征捜索救難部隊潜水夫団のアンドレイ・ズヴャギンツェフ団長は2000年秋、水深110メートルに沈むクルスク号の艦内に最初に入り、12体の遺体を発見した。国際潜水団の団員の一人で、潜水艦を船渠に引き上げた。
「クルスク号は発見されるべき設定時間内に発見された。すでに生存者のいない潜水艦を発見した、というのは別の問題。これは捜索のスピードによって変わってくるものではなかった」とズヴャギンツェフ団長。
海軍には優秀な潜水夫がそろっていたが、この深さまで潜水夫を沈めることのできる技術的な手段がなかったという。それにより、ハッチ開きは、ノルウェーの潜水夫の乗った外国の空母の支援を受けて行われた。秋にはこの救助団に、ロシア、スコットランド、アイルランド、アメリカの専門家が加わった。
「全員が水深110メートルまで一つの気密チャンバーで潜り、水面にあがることなく、28日間そこに暮らしていた。これは極めて困難な条件」とズヴャギンツェフ団長。
クルスク号を引き揚げるために、ロシアは7000万ドル(約84億円)を費やした。これは提案されたオプションの中で「最適」なものだったという。活動は比類なきもので、世界ではそれまで、このような活動が行われたことはなかったと、ズヴャギンツェフ団長はくり返し説明した。
水深110メートルのクルスク号で見たものと、捜索結果は一致しているとズヴャギンツェフ団長。「魚雷が爆発したというこの説は私にとって、より理解しやすい。内部の状況を見て、撮影したから、これを真実だと考えている。やろうと思えば潜水艦衝突までのあらゆる説を唱えることが可能」
「事故が転機に」
第9コンパートメントで死亡したドミトリー・コレスニコフ大尉の父、ロマン・コレスニコフさんは2005年、潜水艦沈没事故の完全な調査を求めてストラスブール裁判所(欧州人権裁判所)に集団提訴した。
クルスク号のゲンナジー・リャチン艦長の未亡人のイリーナさんはこの時、提訴に反対した。「説明するのは難しいけれど。皆が興奮、絶望していて、どうやって生きていくかもわからなかった時に、すべてを一度にやるなんて無理だった。親戚が落ち着くまでの時間が必要。だから反対したの」とイリーナさん。
国際裁判所に提訴する時期は訪れたのか、という質問に、イリーナさんはいかなる場合でも提訴したい人の権利であり(コレスニコフさんは2009年、訴えを取り下げている)、裁判によって楽になるかどうかわからないと話しながら、こう聞いてきた。「何の目的で?真実を理解するために?誰かを罰するために?何かを変えるために?」
この事故に対するイリーナさんの考え方は独特だ。というよりも、幻想を抱いていない。「私の父も軍人、夫も軍人、息子も軍人ってことよね。だから実際に何が起こったのかを私の孫の世代でも知ることはないとわかる。一番重要なのは、乗組員が悪いわけではないということ」
ロシアNOWが取材できた遺族の誰もが、ほぼ同じことを言っている。クルスク号の沈没と乗組員全員の死は国の転換点になり、国は自国の軍を注視するようになり、人々は、軍に入った経験のない人でも、少し変わったという。「政府も含めて、頭の中で進歩があった。これを繰り返してはいけない、別の生き方をしなければと」とソフィヤさんは話す。
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