ロボット工学のパイオニア
ヴァディム・マツケヴィチ自身が後に雑誌『ヤング技術者』誌に書いたところによると、彼のロボット熱に火をつけたのは映画『機械人間 感覚の喪失』(原題『Гибель сенсации』)だった。マツケヴィチは自らのアイディアを地元の少年技術者センターの大人たちに伝え、彼らからブリキ板20枚と10数個のボールベアリングを貰った。
マツケヴィチが製作した「B2M」は身長1.2m、コントローラーで操作し、8つのコマンド(腕を上げる、光の方向へ動く)を実行可能だった。このロボットに現地政府は大いに注目し、1937年にB2Mはパリ万博に出品された。
マツケヴィチは生涯を通して航空技術に取り組み、1950年代末にはモスクワ郊外の若手技術者クラブ長に就任した。1959年には少年技術者らの新作ロボットがソ連国民経済達成博覧会でお披露目された。ロボットは、「電化」パビリオン前に特設されたステージ上で2時間おきに実演された。身長は1.8mで、無線で18のコマンドを実行し、「見る」ことと「聞く」ことができた。
このロボットの「子孫」はソ連市民の関心を集めたのみならず、大阪万博でも披露された。身長2.6m、重さは220㎏。実行可能なコマンドは27で、ダンスも可能だった。
ソ連製ロボットの傑作たち
1960年代からソ連でも工業のオートメーション化が広範に進み、さらに多くの専門家がロボット技術に取り組むようになった。
1962年には、モスクワの科学技術博物館にガイドロボットが登場した。
その4年後、雑誌『ヤング技術者』はヒト型ロボットのコンテストを発表。優勝賞品はオートバイだった。優秀作品は翌年、モスクワで展示された。
カルーガ市の製図教師ボリス・グリーシンは「自動秘書ロボット」を製作した。彼はこのロボットを、当初は老年の母親の家事を補助する目的で設計していた。このロボットは電話を受け付け、メッセージを記録し、来客にドアを開け、朝を告げて起床させる機能を持っていた。また、食器用のテーブルも付いていた。このロボットは最も複雑なものとして評価され、カルーガ市の国立宇宙史博物館に現在も展示されている。
コンテストで優勝したのは、カリーニングラード工科大学で教鞭をとっていたボリス・ワシレンコが指導した愛好家チームの製作したロボットだった。彼らが出品したのは、ダイビングスーツを着せた身長2mのロボット「ネプトゥーン」だった。時速5kmで移動し、危険を報せ(放射能を検出する計器を装備していた)、音波探知機を使って障害物を回避可能だった。
あらゆる仕事にロボットを
ソ連の科学者たちは、経済分野のあらゆる部門向けにロボットを開発していた。
1980年の時点で国内に6000体の産業用ロボットがあり、これは世界全体の20%を超える数だった。自動車工場、原子力発電所、水中、そして宇宙がロボットの働き場所だった。
月面探査車、続いて火星探査車や金星探査車といったローバー(探査車)が初めて開発されたもの、ソ連においてである。