最初の宇宙飛行士になるべくガガーリンと競った5人の候補者

テック
ワレリア・パイコワ
 ユーリー・ガガーリンは1961年、宇宙へ飛び立ち、地球を一周して何百万もの人々の英雄になった。甘いマスクで多くの女性を虜にした彼だが、初めはソ連宇宙計画のために極秘裏に選ばれた20人の宇宙飛行士候補の一人にすぎなかった。

 候補者は厳しい試験と激しい訓練を経る必要があった。20人とも体力面の訓練で良い結果を示した。精神の鍛練度と心臓血管の調整機能などの点に関して、ソ連のパイロットたちの限界が試された。

 候補者は宇宙船の打ち上げの際に似た重力加速度に慣れていた戦闘機パイロットから選ばれた。主な要件は身体的な条件だった。

 ソ連宇宙計画の父セルゲイ・コロリョフ(人類初の宇宙飛行に貢献した宇宙船設計者)は、理想的な候補者は30歳前後で、身長は1メートル70センチメートル、体重は70キログラムだと考えていた。

 長期間に及ぶ試験の末、20人の候補者はさらに6人に絞られた。ガガーリンと、次の5人だ。

1. ゲルマン・チトフ

 チトフはガガーリンの最も強力なライバルだった。「彼は私と同じくらい鍛えられており、おそらく私よりも実力があった。彼を最初の任務で送らなかったのは、次の、より難しい任務のために彼を取っておきたかったからかもしれない」とガガーリンは後に自著『宇宙への道』で回想している。

 ガガーリンの先駆的な宇宙飛行から間もなく、チトフもカザフスタン・ソビエト社会主義共和国のバイコヌール宇宙基地から宇宙へ飛び立った。25歳の青年は、史上2人目の宇宙飛行士として歴史に名を残し、宇宙に24時間余り滞在した。

 ガガーリンの宇宙飛行は「わずか」108分で、ソ連宇宙計画の指導者らは次の任務をより長時間にしたいと考えていた。医師らは最悪の事態を危惧していたが、セルゲイ・コロリョフは、宇宙環境と人類への新たな洞察を得るためには24時間の宇宙飛行が必要だと言い張った。チトフは1961年8月、ボストーク2号に乗ってこれを実行した。彼は地球を17周し、宇宙に計25時間滞在した。 

2. ワレンチン・ボンダレンコ

 ボンダレンコは1960年に宇宙飛行士候補に選ばれた。優れた身体能力と親しみやすい人柄が評価されたのだ。彼は期待に応えるため大変な努力をした。しかし、最年少の宇宙飛行士候補は、最も運がなかった。ユーリー・ガガーリンの飛行が予定されていた数日前の1961年3月23日、取り返しのつかない悲劇が起こったのだ。

 「静寂の部屋」と呼ばれる特別な隔離室で、宇宙飛行士の日常的な訓練の一部が行われていた。この部屋は修道院の僧房のようなもので、基本的なトイレ設備、狭いベッド、机、ボストーク宇宙船のカプセル内のものに似た座席があるばかりだった。宇宙飛行士が10日間過ごすことになっていた密室は、宇宙船の環境を模して気圧が高められており、酸素濃度も異常に高かった。

 ボンダレンコがすべての試験を通過し、部屋を出ようとしていた時に、悲劇が起こった。ボンダレンコは生体センサーを外す最後の指示を受けたが、この時に致命的なミスを犯した。彼はアルコールを染み込ませた脱脂綿で粘着物質を拭き取り、迂闊にもそれを投げ捨ててしまったのだ。脱脂綿は熱された電気コンロの電熱ヒーターの上に落ちて発火した。酸素濃度が極めて高かったため、火は一気に燃え上がった。重度の火傷を負ったボンダレンコはモスクワのボトキン記念病院に搬送される途中で「申し訳ない」と囁いたという。 

 医師らは彼を救うことができなかった。8時間に及ぶ治療も虚しく、24歳の青年はショック死した。事故は長らく隠ぺいされた。事故死した宇宙飛行士の名は公式資料にも記されず、最初の宇宙飛行士候補らの写真からも彼の顔が消された。

3. マルス・ラフィコフ

 1950年代初め、キルギスのタタール人の家庭に生まれたラフィコフは、地元の空軍学校を卒業し、パイロットとして防空部隊に配属された。 

 マルス(ローマ神話の軍神または火星)という宇宙にぴったりの名前を持つ26歳の青年に、突然幸運が訪れ、ユーリー・ガガーリンらと並んで最初の宇宙飛行士候補に選ばれた。ラフィコフはボストーク1号に乗るための訓練を受けていたが、厳しい訓練を経て、一見好成績を残していた。マルスが最初に宇宙に行く候補の筆頭であると、ライバルたちも確信していた。

 しかし、事態は悪い方向に進んだ。ラフィコフによれば、彼の家庭の問題に原因があったという。彼は妻と別居しており、離婚するつもりだったが、そのことを上司が不安視した。ラフィコフはイメージを守るために離婚を避けるよう言われたが、彼は聞き入れなかった。

 1962年、この宇宙飛行士候補はチームから外された。公式の理由は、無断で部隊から離れたことだった。マルスは、自分が当局の希望に逆らったために追放されたのだと考えていた。

 その後ラフィコフはパイロットの仕事に復帰した。1980年、彼はアフガニスタンで空中偵察兵として活動し、赤星勲章を受章した。

4. グリゴリー・ネリューボフ

 最初の宇宙飛行士候補20人のうち、8人が途中で脱落した。健康問題が障がいとなった者もいれば、かんしゃくや苛立ちの発作に負け、最終的に除外された者もいた。

 グリゴリー・ネリューボフはいち早く歴史的なチームに入ることが決まったメンバーの一人だった。彼はガガーリンの第2バックアップを任され、ソ連で3人目の宇宙飛行士になるはずだった。彼の飛行は1961年の秋に予定された。しかし、土壇場になって一人ではなく複数の宇宙飛行士を宇宙に送ることになった。おそらくこの路線変更がネリューボフのキャリアを潰してしまった。

 1963年、ネリューボフと2人の仲間はモスクワの飲食店にいるところを見つかった。グリゴリーは酔っており、治安職員に対してかなり横暴な態度を取った。事件については、ソ連の飛行士ニコライ・カマーニンに直接報告が行った。カマーニンは、ユーリー・ガガーリンやアレクセイ・レオーノフなど第一世代の宇宙飛行士をリクルートして訓練した人物だ。ネリューボフは謝罪を命じられたが拒み、ただちにチームから追放された。

 彼は何度かチームに戻ろうとした。コロリョフはまだ彼を信頼していたからだ。しかし、コロリョフが1966年に他界すると、ネリューボフの復帰の可能性は永遠に閉ざされた。不幸は重なり、間もなくネリューボフは列車にひかれて死亡した。 

5. ボリス・ヴォルィノフ

 待ち続ければ報われることを誰よりも知っている人々がいる。それはたいてい宇宙飛行士だ。ボリス・ヴォルィノフに起こった出来事は、待ち続けた者に良い未来がやって来ることを如実に示す好例だった。彼は最初の宇宙飛行士チームの中で唯一存命の人物でもある。

 ヴォルィノフは幼い頃からパイロットになることを夢見ていた。彼は他のメンバーと同様、ユーリー・ガガーリンと同じ日に最初の宇宙飛行士チームの一員となった。彼はボストーク3号・4号の宇宙飛行士とともに訓練をし、ボストーク5号で宇宙へ行ったワレリー・ブィコフスキーのバックアップも務めた。

 ヴォルィノフがついにチャンスをつかんだかに思われたのは1965年、ボスホート3号の船長に任命された時だった。しかし翌年、コスモス110号に犬のヴェテロークとウゴリョークを乗せた22日間の無人飛行試験が優先して行われることになり、任務は取り消された。 

 1969年、彼にようやく幸運が訪れた。ヴォルィノフはソユーズ5号に乗って宇宙で3日間を過ごし、最初のユダヤ人宇宙飛行士となった。7年後の1976年には2度目の飛行任務に臨み、ソユーズ21号で49日6時間23分の宇宙飛行を行った。

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