戦車を消防用に使ってはどうか。1970年代末にソ連の技師がこんなことを思い付いた。
重装甲装軌車両は理論的に消防隊にとっていくつかの利点があった。
まず、戦車は理論上水と消火剤を火災の中心部にもたらすことができた。装軌車両は火に弱いゴム製のタイヤを持たない。キャタピラーは高熱に耐えられるはずだった。
次に、戦車は別の目的でも有用だと考えられていた。燃える瓦礫に突っ込んで炎を細かく砕き、消火しやすくできるからだ。
さらに、戦車の装甲は、兵器庫や弾薬庫で活動する場合に問題となる榴散弾や砲弾の破片から人員を守ることができた。
消防戦車として初めて作られたのがGPM-54だ。1970年代末にリヴィウ(当時はウクライナ・ソビエト社会主義共和国)にあるソ連国防省の第17戦車修理工場で製造され、ソ連最高の戦車の一つであるT-54をベースにしていた。
本来砲塔があるところに水タンクを搭載し、ブルドーザー・バケットと放水砲を備えていた。泡タンクの容量は1100リットル、水タンクの容量は9000リットルだった。放水砲は毎秒40リットルの液体を放出できたとされる。
1978年の登場以来、GPM-54はバイコヌール宇宙基地に配備されている。バイコヌール宇宙基地は当時はソ連領で、1991年のソ連崩壊以降はロシアがカザフスタンから租借している。
1986年4月26日にプリピャチ(現ウクライナ)近郊のチェルノブイリ原発で原子炉が爆発した際には、GPM-54消防戦車が現場で消火活動に当たった。
1990年初めまで、GPM-54は自然火災や大規模な工場火災での消火活動に特化した消防隊に配備されていた。
1991年のソ連崩壊の後も、この消防戦車は砲兵隊の弾薬庫での消火活動に使われた。
アイデアは有望だったが、完成品にはいくつか深刻な短所があった。一つは移動と放水を同時に行えないことだった。
もう一つの短所は、ディーゼルエンジンが高熱に耐えられず、しばしば活動中にオーバーヒートと酸素不足で停止してしまうことだった。乗員にとっては、エンジンの止まった「金属缶」の中に閉じ込められることは死刑宣告に等しかった。外気温が高すぎて脱出もできなかったからだ。
これらの欠点を受け、技師らは消防戦車の改良を目指した。1990年代末、SLS-100が開発された。
このモデルは遠隔操作システムを備え、放射能や化学薬品で汚染された場所やその他の危険地帯でも乗員を危険に晒すことなく活動できた。状況が許せば2人の乗員が乗り込んで操作することもできた。
水や泡の放出性能も格段に改善され、水は100メートル、泡は70メートル先まで飛ばせるようになった。
もう一つの消防戦車「インプリス-2M」は1988年に登場した。このモデルが開発された主な目的は、同様のモデルでは不十分だった一斉射撃能力の問題を解決することだった。
新しい消防戦車はソ連製のT-62戦車をベースにしていた。
「インプリス-2M」は50連装砲を持ち、水や砂、消火剤の入ったカプセルを撃つことができた。車両の最高速度は時速50キロメートルで、重量は約35トンだった。
頑強なT-62のプラットフォームを利用した車両は10門の大砲からの5連続の一斉射撃の反動に耐えられた。自動制御システムによって、誤って11門以上の大砲が一斉射撃を行うことがないよう管理されていた。さらに車体を炎上やオーバーヒートから守る冷却水の循環システムが導入され、GPM-54が抱えていた重大な問題を克服した。
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