列車と飛行機を掛け合わせたらどうなるだろうか。レールの上を「飛べる」だろうか。
百年前、多くの国の技師らがこの問題に取り組んだ。当時は依然として短所より長所が多い汽車が普及しており、過去の遺物となる気配はなかった。しかし、これをより有望なものへと改造する努力は絶えずなされていた。まず、速度を上げる実験が行われた。車両に航空機エンジンとプロペラを取り付けるというアイデアは簡単に生まれた。
これを1919年に初めて実現したのがドイツ人のオットー・シュタイニツだった。彼の航空機動力装置を持つ自走車両「ドリンゴス」の試作品は時速120~150キロメートルで走った。
だがアエロワゴン「ドリンゴス」は量産されなかった。航空機エンジンの製造と使用を禁じるヴェルサイユ条約に抵触したからだ。代わってこのアイデアを実現しようとしたのがソビエトの運転手だった。
ソビエト版アエロワゴン
彼の名はヴァレリアン・アバコフスキーだった。ロシア帝国時代に生まれ、1917年の革命後はタンボフ(モスクワの460キロメートル南東)で現地の反革命対策保安機関の普通の運転手として働いていた。24歳のアバコフスキーは機械を愛しており、「ドリンゴス」の実験の噂も聞き付けていた。
彼は上司を説得してタンボフ鉄道工房に転勤し、1920年代初めに自身のアエロワゴンを設計した。
アバコフスキーの学歴については何も知られていないが、彼のプロジェクトは注目された。第一に、国家の要人やロシア諸都市の重要な資料の高速輸送に適する可能性があったからだ。
流線形と良好な航空力学的特性を得るため、車両の先端は楔状に、屋根はやや斜めにされた。車両の前に航空機エンジンが取り付けられ、直径約3メートルの2枚の木製の羽根が回るようになっていた。車両の中間部と後部には客席が置かれ、一度に20~25人を輸送することができた。
アバコフスキーのアエロワゴンは時速140キロメートルまで加速できた。1921年夏までに試験が始まり、7月半ばまでに3千キロメートル以上の走行に成功した。プロジェクトは成功と判断され、初めて要人を運ぶことになった。これが致命的な結果につながる。
クルスク道の事故
1921年7月、アエロワゴンに好機が訪れた。モスクワで同時にいくつかの共産主義インターナショナルの会合が行われ、外国の代表団が来ることになっていた。ボリシェヴィキ政権は、ロシア革命の意義を語るには、その原動力たるプロレタリアートのすぐ近くで語るのが良いだろうと考えた。同志アルチョムとして知られ、スターリンの親友だったフョードル・アンドレエヴィチ・セルゲエフが代表団を率いていた。彼は1918年に、民衆の間で「ドンバス共和国」として知られることになるドネツク・クリヴォイ・ローク・ソビエト共和国を建国した人物だ。モスクワ近郊、トゥーラ郊外の産炭地を回るツアーが企画された。
7月24日朝、アルチョムとアバコフスキー本人、ドイツ人共産主義者オスカー・ゲルブリヒ、オーストラリア人共産主義者ジョン・フリーマン、その他外国人らの乗ったアエロワゴンがソビエトの炭坑へと出発した。「新構造のアエロドレジーナ」は時速40~50キロメートルで走り、問題なく彼らを炭坑に運んだ後、トゥーラ兵器工場に至った。
現地の劇場で開かれた市ソビエトの祝賀会に出席した代表団は、帰り道を急ぎ、アエロワゴンは時速80~85キロメートルに加速した。午後6時35分、モスクワから111キロメートル離れたセルプホフ付近で、アエロワゴンは全速力で脱線し、「木っ端みじん」になった。2日後のプラウダ紙は「クルスク道の事故」の見出しでこう伝えている。「車両に乗っていた22人のうち、オットー・シュトルパト(ドイツ)、ゲルブリヒ(ドイツ)、ヒューレット(イギリス)、コンスタンチノフIv.(ブルガリア)、鉱山労働者組合中央委員会議長、同志アルチョム(セルゲエフ)、同志アバコフスキーの6人が死亡」。
政治的な粛清?
事故の公式の原因として、ロシアの鉄道の保守状態が挙げられた。アエロワゴンは線路の凹凸に引っかかって脱線したというのだ。捜査は打ち切られた。アエロワゴンの開発も終了した。
だが、同志アルチョムの息子でソ連高射ロケット軍の創設者の一人であるアルチョム・フョードロヴィチ・セルゲエフ(事故当時彼は4歳になったばかりで、事故の3日後にスターリンに引き取られた)には、別の説が思い当たった。彼はこう回想する。
「スターリンは、偶然が政治的な結果を持つならば、注意しなければならないと言う。アエロワゴンのレールには石が積まれていたことが分かっている。さらに、2つの委員会があった。一つはエヌキーゼ[アヴェリ・エヌキーゼ、中央執行委員会書記。スターリンの妻の洗礼に立ち会った人物]が率い、彼は事故の原因が車両の構造の欠陥にあると見たが、ジェルジンスキー[フェリックス・ジェルジンスキー、革命家でソ連最初の保安機関の創設者]は私の母に、この点は検討が必要だと話していた。空から石は降って来ない。
実は、トロツキーの影響力に対抗するため、アルチョムは、レーニンの指示で、国際鉱山労働者組合を創設していた。組合の組織委員会が作られたのは事故の数日前だった。トロツキーは当時とても大きな力を持っていた。軍の大部分とごく一部のブルジョアも彼の側に立っていた」。
革命の指導者の一人レフ・トロツキーは、レーニンの死後ソ連を率いる可能性が最も高かった。1940年、すでに国外追放されていた彼は、スターリンの指示により、メキシコで暗殺された。セルゲエフの説では、トロツキーが父親の計画殺人の首謀者だったというのだ。
事故の後にソ連が再びアエロワゴンを走らせる挑戦に出たのは1970年のことだった。この車両は屋根にターボジェットエンジンAI-25を取り付けていた。アエロワゴンの最高速度は時速250キロメートルだった。この車両の試験は次世代の列車の開発に役立った。
試験終了後、アエロワゴンは長らく駅に放置されていたが、しだいに無用になっていった。2008年、ジェットエンジンを持つ車両の鼻が切り落とされ、彩色され、トヴェーリ列車製造工場創立110周年を祝う記念碑となった。