冷戦時代、ソ連と米国の二大勢力は武力紛争がいつ起こっても大丈夫なように準備していた。第三次世界大戦が起これば間違いなく核戦争になること、相互確証破壊(MAD)が現実のものになってしまうことを誰もが確信していた。
しかし1979年、ソ連は全面的な核戦争を避けながら宿敵を撃破する計画を作成した。「ライン川への七日間」計画(2005年になってポーランド国防省が公表した)の内容は、ヨーロッパのNATO軍をわずか一週間で壊滅させるというものだった。
先制攻撃に対する反撃
モスクワはNATOが先制攻撃を仕掛けてくると考えていた。計画では、NATOはポーランドのヴィスワ川流域の25の軍事施設を核攻撃し、同国を壊滅させて汚染地帯に変え、東ドイツやハンガリー、チェコスロバキアに駐留するソ連軍を本土の主要な基地から切り離すだろうと想定されていた。
しかしそうすれば、直ちにワルシャワ条約機構が動くことになる。ソ連の核ミサイルがドイツ、ベルギー、オランダ、デンマーク、イタリア北部に降り注ぐ。こうしてブリュッセルのNATO本部も壊滅する。
ソ連はアメリカ、フランス、イギリスを核攻撃せず、代わりに西側陣営の分断を図ったのだ。ソ連は、米英仏それぞれの核兵器をいつどのように使うかは、NATOの総司令部ではなく各国指導部が個別に決めることだと知っていた。ソ連は彼らに、ソ連に核攻撃を行って必然の核ミサイルの反撃を食らうか、核戦力を使わずに戦うか、紛争に関わらず傍観者となるか、という厳しい選択を迫ることになるのだ。1966年にNATOを脱退した(協力関係は続けていたが)フランスとNATOとの複雑な関係を踏まえれば、こうした展望は決してあり得ないものではなかった。
核攻撃が行われれば、ソビエト軍、東ドイツ軍、チェコスロバキア軍が敵の戦線をライン川までえぐり込む計画だった。戦車の数ではNATOを数倍上回っており、勝算はあった。同時に、中立国だが戦略的に重要なオーストリアもまた、ハンガリー軍によって攻撃・占領されることになっていた。
ソ連の上陸部隊が河川の重要な橋を押さえ、ワルシャワ条約機構空軍がヨーロッパにあるNATOの飛行場や基地を破壊する手筈だった。
ソ連海軍には重要な任務が与えられていた。大西洋上の米国とヨーロッパの連絡路を絶ち、米国がNATO軍に補強部隊を派遣できないようにすることだ。ソ連の潜水艦が米国の切り札である空母打撃群を沈める。一方、北極海に配置されたソ連の原子力潜水艦は、米国からの核攻撃に備えて報復の準備をする。
素朴な計画
モスクワは、すべてが計画通りに進めば、NATO軍のヨーロッパにおける主戦力を7日間で撃破できると考えていた。必要ならば、ソ連軍はフランスも侵攻することになっていた。西側諸国の指導部は衝撃を受けて動揺し、否が応でも交渉の席に着く。こうして全面的な核戦争は回避される。
しかしソ連の司令部は、1949年の北大西洋条約で宣言された集団的自衛権を完全に無視していた。同盟国の一つに対する攻撃は、NATO全体に対する攻撃に等しいと見なす考え方だ。NATOは、仮に加盟国一つが核攻撃されれば、その国がたとえ核保有国でなかったとしても、全面的な核戦争を始めるつもりだった。
ワルシャワ条約機構の中でソ連に最も近かった同盟国すら、「ライン川への七日間」計画があまりに楽天的で、ほとんど遂行不可能だと見ていた。それでも、ソ連はこの計画に基づく極秘軍事演習を1980年代後半まで10年間にわたって行っていたのである。