伝説の「ロバ」
大戦序盤、赤軍の主力戦闘機はI-16だった。これは当時最小の飛行機の一つで、全長わずか6メートルだった。1930年代半ばに開発されたI-16は、スペイン内戦、日中戦争、ノモンハン事件、冬戦争(ソ芬戦争)など、幾度となく軍事紛争を経験してきていた。スペイン人には「ハエ」、中国人には「ツバメ」、日本人には「アブ」と呼ばれた。だが、ソ連ではこの戦闘機は「イシャチョーク」(「ロバ」)と呼ばれていた。これはソ連初の車輪収納式飛行機で、初期の試験飛行ではパイロットのワレリー・チカロフがどうにか車輪をしまうことができた。操作がかなり難しく、評判は頗る悪かった。後に改良が加えられ、大戦初期にはドイツ空軍の飛行機を迎え撃ち、体当たりに行くことも珍しくなかった。I-16に乗って初めて体当たりをしたのはソ連パイロットのイワン・イワノフだったと考えられている。それはなんと開戦からわずか25分後のことだった。
最も扱いやすい戦闘機
1945年6月、フランスのル・ブルジェ飛行場に、戦闘機Yak-3に乗ったノルマンディ・ニーメン飛行連隊のパイロットらが降り立った。これは当時最も操縦しやすい飛行機であり、フランス人はもっぱらこの戦闘機で飛行することを望んだ。Yak-3に乗ったフランス人パイロットらは1944年11月のリトアニア解放作戦や1945年の東プロイセンでの戦闘に参加した。大戦末期、ソ連はフランスに無償で40機のYak-3を提供した。今日でもそのうち一機がル・ブルジェ航空宇宙博物館に展示されている。
ゴースト・イン・ザ・シェル
KV-1戦車(KVはソ連国防人民委員のクリメント・ヴォロシーロフのイニシャル)はドイツ人から「幽霊」(Gespenst)と呼ばれた。実際、この戦車はドイツ軍にとって驚くべきものだった。重量47トンのKV戦車は装甲板の厚さが75ミリで、当時の砲弾ではほとんど破ることができなかった。この戦車は1941年から1942年の戦闘に耐え、西部戦線でドイツ軍の侵攻を食い止めた。1941年6月のラセイニャイ(現リトアニア)郊外の戦いでは、KV戦車一両でドイツ軍の縦隊の動きを二昼夜封じ込めた。夜に破壊工作兵が戦車を爆破しようとしたが、キャタピラが損壊しただけだった。動けなくなってただの砲台と化した後も戦車は抵抗を続けたが、敵の高射砲でついに破壊され、乗員全員が死亡した。
戦局を変えた戦車
T-34は最も有名な大戦のシンボルの一つであり、ソ連で最も多く量産された戦車でもある。ウラル地方だけで1942年から1944年までに約2万5千両のT-34が製造された。
モスクワ州北部にT-34博物館がある。一つの戦車をテーマとした博物館は世界でここだけだ。まさにここ、クレムリンからわずか30キロメートルのところにあるショロホヴォ村で、1941年12月、ドイツ軍の侵攻が止まったのである。赤軍の反撃で主要な役割を果たしたのがソ連の新兵器、T-34中戦車だった。T-34は敵を首都から250キロメートルほど押し返した。
戦局が変わったのはクルスクの戦いの後だった。この戦いは史上最大の戦車戦であり、約200万人の兵士と6千両の戦車、4千機の飛行機が参加した。ソビエト軍の戦車の3分の2を占めたのがT-34中戦車だった。
「T-34の砲塔は他の兵器、例えばドナウ艦隊やヴォルガ艦隊のプロジェクト1124・1125装甲砲艇などにも取り付けられた。これらの砲艇はこのため『河川戦車』と呼ばれていた」とUGMK博物館のガイド部長、グリゴリー・パヴリュコフ氏は話す。
キャタピラを履いた大砲
クルスクの戦いには、KV-1をベースに作られたSU-152自走砲(152mm砲搭載)も初めて参加した。この自走砲はドイツ軍の新兵器、ティーガー戦車やパンター戦車に対して用いられ、そのため敵からは「缶切り」と呼ばれた。1944年、陳腐化したKV-1に代わって赤軍にソ連最強の戦車、厚さ120mmの装甲板と122mm砲を持つIS-2重戦車(ISはヨシフ・スターリンのイニシャル)が登場し、自走砲もこれをベースに作られるようになった。こうしてISU-122自走砲(122mm砲搭載)とISU-152自走砲(152mm砲搭載)が生まれた。
「カチューシャ」と「アンドリューシャ」
「岸辺に歩み出るはカチューシャ、高く険しき岸辺に」というのは、戦争へ行った恋人を思う少女を歌ったソ連の曲の一節だ。1941年7月14日にイワン・フレロフ大尉の砲兵大隊がオルシャ(ベラルーシ)郊外の鉄道の要衝で険しい岸辺から敵の大軍に打撃を与えた後、多連装ロケット砲BM-13は「カチューシャ」という愛称を得た。「砲撃は大嵐を思わせた」とドイツの新聞は「カチューシャ」の攻撃の様子を伝えている。多連装ロケット砲は恐ろしいものだった。複数のロケット弾の爆発が交差し、行く手にあるものすべてを破壊した。しかも「カチューシャ」は非常に特徴的な音を発したため、ドイツ兵はこれを「スターリンのオルガン」と呼んだ。「カチューシャ」はモスクワからベルリンまで大戦中全期間を通して用いられ、勝利の真の象徴となった。
初めロケット弾は航空機に採用されたが、1938年から1941年にソ連の設計者らが多連装発射機を開発し、さまざまな兵器に取り付けることができるようになった。BM-13(132mm口径)は武器貸与法で米国から提供されたトラック、スチュードベーカーUS6に搭載され、一方BM-8-24(82mm口径)はT-60戦車の砲塔の代わりに取り付けられたり、牽引トラクターに載せられたり、砲艇に搭載されたりした。1944年、さらに強力なBM-31-12(310mm口径)が実戦に投入された。ロケット弾はなんと一発90キログラムだった。BM-31-12は「アンドリューシャ」の愛称で呼ばれた。赤軍は敵のロケット砲にも愛称を付け、多連装ロケット砲ネーベルヴェルファーを「ヴァニューシャ」(イワンの愛称)と呼んでいた。
ソビエト軍の主要なハリウッド戦車
映画『フューリー』では主演のブラッド・ピットが米国で最も有名な戦車、シャーマンを指揮している。だがこの戦車に乗っていたのは米兵だけではなかった。1942年から、約4千両のシャーマン戦車が武器貸与法でソ連に提供された。米国の工場ではソ連の戦車兵への贈り物が用意された。戦車の砲身にウィスキー入りの瓶が隠されたのだ。このことが分かったのは、砲身を清掃している際に贈り物の一つが割れてしまった時だった(「戦車長のヴィクトル・アクーロフはこの損失を見て泣きかけた」)とドミトリー・ロザーは著書『外車に乗った戦車兵』で綴っている。以後、米国からの「贈り物」は砲身から防水布の上に取り出された。シャーマン戦車はクルスクの戦いで初めて戦闘に加わり、以後全戦線に配備された。
コルホーズから戦線へ
戦時中は民間の車両も軍の需要に合わせて改造され、戦線に送られた。GAZ-AAトラックと派生版のGAZ-MM、通称「ポルートルカ」(「1.5トントラック」の意。最大積載量1.5トンだった)は戦時の象徴となった。量産され、開戦までに民間用に約100万台が生産されていた。戦時中もトラックの生産は続いたが、金属の節約が徹底された。このためドアの代わりに布のカーテンが下げられ、車室は木で作られ、ライトは一つだけ、場合によっては一つもなかった。装輪車両は常に需要があった。武器貸与法でも他の兵器よりも装輪車両のほうが多く提供されたほどだ(飛行機約11000機、戦車約12000両に対し、装輪車両は40万台以上)。
「ポルートルカ」は兵士や弾薬を輸送し、兵器を搭載して用いられることもあった。
レニングラード包囲の際、街と本土とをつなぐ唯一の補給路が、ラドガ湖の氷上を通る長さ30キロメートルの「命の道」だった。車両の誘導が始まったのは1941年11月だった。まだ薄い氷の上にまず数十台の「ポルートルカ」が乗った。敵に砲撃されないよう、ライトを消して進んだ。前線はすぐ隣だった。最初の冬だけで包囲された街に36万トンの貨物が送られ、レニングラードから子供を中心に50万人の市民が脱出した。
「羊ちゃん」の装甲列車
民間の汽車や列車も前線で活躍した。鉄道がなければ、2500もの工場、博物館、劇場の大半が開戦から3ヶ月以内に疎開することはできなかっただろう。想像してほしい。工作機械や設備、研究室などを備えた施設を2000キロメートルも移動させたのだ。
当時最も量産されていた汽車の一つが「オフ」だ。親しみを込めて「オヴェーチカ」(「羊ちゃん」の意)と呼ばれていた。他の巨大なモデルに比べればミニチュアのようだった。避難編隊や衛生車を牽引し、時には装甲列車としても使用された。他の汽車に装甲を施すと、自重でレールを壊してしまうことが分かったためだ。
まさにこうした列車の一つ、746号が1943年にモスクワ地下鉄の資材を利用して作られた。乗員の大半(58人)が地下鉄職員だった。746号は、同様の装甲列車737号とともに、クルスクの戦いの最も過酷な局面で戦闘に参加した。