「核の冬」のシナリオは本当か:核戦争→気候大変動→地球の冷却→生物の死滅…

Vladimir Manyukhin撮影
 1980年代、ロシアとアメリカの科学者はこんな結論に達していた。核戦争が、突然の劇的な気候変動を引き起こし、それによって、地球上の生命を死滅させると。しかし、一部の懐疑論者は、「核の冬」の脅威は誇張されていると考える。

 ひとつ想像をたくましくしてみよう。露米両国は、対立を外交的に解決できず、ついに核兵器を発射する…。それらは、主要都市を壊滅させ、火の海に変える。高温が、鉄筋コンクリートさえ溶かしてしまう。激しい炎が非常な広範囲を包むので、生きとし生けるものを殺し尽くすだけでなく、大気中に大量のばい煙を拡散させる。そして真の問題はここから始まる。

死に至る冷却

 ばい煙と塵は成層圏に上昇し、そこで濃い雲の層を形成して、日差しをさえぎる。「このような煤の雲ができると、太陽光線は地面に届かず、突然の気温低下を引き起こす」。こう書いているのはソ連の数学者、ニキータ・モイセーエフだ。彼は1980年代に、核戦争が起きた場合に環境にどんな影響が出るか、その数学モデルの開発を主導した。

 「我々の計算によれば、核戦争後の最初の1ヶ月で、地球の平均気温は15〜20度下がる。25度下がる可能性さえある。しかも、その後も数ヶ月間下がり続けるだろう」。モイセーエフはこう付け加えていた。

 モイセーエフが同僚と共同で開発したモデルは、核戦争が北半球で起きると仮定した。このモデルによれば、アメリカ、ヨーロッパ、そしてソ連は、TNT換算5千〜7千メガトンの核爆弾で完全に破壊されるだろうという。

 このシナリオではもちろん、地球のその他の地域においても、何ひとつ希望はない。数ヶ月間、「核のたそがれ」――すなわち日が差さない、延々と続く夜――、それに「核の冬」が地球に覆いかぶさり、地表を数メートルの深さまで凍らせ、淡水の生き残った生物も殺す。

 これに加えて、煤煙のドームが数ヶ月にわたり間地球をすっぽり覆い、膨大な放射線が降り注ぎ、気候変動で時化や台風が発生して海岸を襲い、食物は欠乏する…。 どんな生き物も死を避けることはできない。

 「人類は、『核の冬』を乗り切ることはできまい」とモイセーエフは述べた。「生き残って、核戦争後の春を目にできる者はあるまい」

科学者たちは核戦争に一致して反対した

 以上のモイセーエフの言葉は、1987年に彼が書いた著書『アルゴリズムの開発』から引用したものだ。その数年前の1983年、米ソの2つの、それぞれ別個の科学者グループが同じ結論に達しており、初めて「核の冬」の仮説を定式化した。

 アメリカでは、核戦争について声を大にして語った、有名な天体物理学者カール・セーガン博士が、1983年10月に、1000万人の読者を持つ人気雑誌「パレード」に論文を発表した

天体物理学者カール・セーガン博士。1986年。

 「我々は、文明と人類を危険にさらしてきた」。セーガン博士はこう記し、核戦争の恐るべき帰結を描き出した

 後に、セーガン博士は共著者とともに、「サイエンス」誌にも論文を発表し、「核の冬」の可能性を世界中の専門家に向けて説明した。しかし、「パレード」誌の論文は、普通の米国人に不安を抱かせた点で、もっと重要だったろう。

 その頃、地球の反対側では、ソ連の大気科学者ゲオルギー・ゴリーツィンが、核戦争後における地球規模の気温低下に関する研究を発表していた。セーガン博士より少し早い、1983年5月のことだった。

 米ソの二人の科学者がほぼ同時にこうした研究を公にしたのは偶然ではなかった。ゴリーツィンとセーガンはお互いのことをよく知っていた。二人とも、他の惑星を含む大気を研究しており、それは結局、ゴリーツィンが「核の冬」の可能性をモデル化する助けになった。

ソ連の大気科学者ゲオルギー・ゴリーツィン。国際シンポジウム「核戦争の防止における医師の役割」にて。

「空気中に大量に埃が舞い上がるとどうなるか、私は知っていた。こうした現象は、火星では定期的に観察できるからだ」。ゴリーツィンはこう語る。「惑星規模の砂嵐の間は、太陽の光が地面に届かないため、気温が大幅に下がる」

  ゴリーツィンはその後、理論を構築するために類推を行い(1984年)、それは後に、その後ニキータ・モイセーエフのより徹底した研究によって確認された。

「最後の審判」のシナリオか世界的なデマか?

 1980年代、「核の冬」の観念は世界に衝撃を与えた。その頃には、社会主義圏と西側は軍事紛争の危機に瀕していた。米国の準中距離弾道ミサイル「パーシング」が欧州に配備されており、もし発射されれば8~10分でモスクワに到達する。そうした状況において、世界的な恐怖感に、潜在的な「核の冬」のニュースが加わったのである。

 これが変化をもたらした。1985年に、米ソ両首脳、ミハイル・ゴルバチョフとロナルド・レーガンは、ジュネーブでの最初のサミットの後に、こう述べた。「核戦争に勝者はあり得ず、また、それは決して起きてはならない」

 その後10年足らずで冷戦は終結し、露米間の核戦争の可能性ははるかに減った。しかし、依然として問題は残っている。「核の冬」の概念は正確だったか?

 いく人かの科学者は、セーガン、ゴリーツィン、モイセーエフによって行われた研究を不完全で疑わしいと批判した。「コンピューターモデルは非常に単純化されており、煙その他のエアロゾルに関するデータも非常に貧弱であるため、科学者は確実なことを何も言い得ない」。2011年に米国物理学協会(AIP)はこう指摘している

残る問題と疑惑

 さらに、第一次湾岸戦争(1990-1991)の結果、米国におけるセーガンの立場は弱まった。彼は、油井の激しい火災が「核の冬」に似た効果をもたらし、地球の気温が数度低下すると予測した。つまり、1816年の悪名高い「夏のない年」のようなものが引き起こされるだろうと考えたのだが、そんなことはなかった。

 「私はいつも『核の冬』はデマで、科学的に不正確だと考えていた」。セーガンの主な論敵、ジークフリート・フレッド・シンガー博士は、1990年代初めのこれらの出来事の後にこう述べた。ロシアでも、「核の冬」の仮説が議論の俎上に載せられた。

 例えば、モスクワ物理工科大学(MIPT)のセルゲイ・ウチュジニコフは、2001年に論文「大火災による大気中での汚染拡散のシミュレーション」を書き、そこで、ほとんどの煤や塵は成層圏に達せず、大気の下層に留まると述べた。

 「不純物は雨によって洗い流され、気候に深刻な影響を与えない」。ウチュジニコフは、「核の冬」説を批判しつつ言う。

 こういうそれなりに正当な批判がなされているにもかかわらず、「核の冬」説は消えたわけではない。例えば、2018年に、Joshua M. PierceとDavid C. Denkenbergerが論文を出し、そこで二人は、100以上の核弾頭を使用すると、地球規模の気候変動が発生すると述べている

 「核の冬」の信憑性をめぐる議論はこれからも続き、おそらくすぐには決着がつかないだろう。もちろん、「核の冬」説が真実かどうかを確かめる方法はただ一つ。実際に核戦争を始めることだ。だが、人類がそんな方法で確かめようとしたりしない良識があることを望む。

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