世界最先端のロシアの駆逐艦が祖国と再会

テック
ボリス・エゴロフ
 当時最速の船ノヴィークは、2度の世界大戦で名声を轟かせたが、ソビエト海軍史上最も悲劇的な作戦の一つで海に沈んだ。

 ソビエト時代にはヤコフ・スヴェルドロフの名で知られたロシアの伝説的な駆逐艦ノヴィークは、1941年に機雷の爆発で沈没したが、77年の歳月を経て、2018年6月16日に発見された。フィンランドとロシアの合同チームによる懸命な捜索によって実現した。

最速の駆逐艦

 1910年に進水したノヴィークは、ロシア・バルチック艦隊で最も先進的な駆逐艦だった。速度は37.3ノット(時速およそ68キロメートル)で、第一次世界大戦初期には世界で最速の船だった。戦争が勃発すると、ノヴィークは主にバルト海のロシアの港に通じる航路に機雷を仕掛けるために用いられた。

 1915年8月4日、ノヴィークは、機雷原を航行していたドイツ軍の2隻の最新駆逐艦V-99とV-100に対し有名な勝利を収めた。その後駆逐艦はノルショーピング市に近いブローヴィケン湾でドイツ軍の護衛艦に対する攻撃や西エストニア諸島の防衛作戦に参加したが、後者は失敗に終わった。1917年10月のことだ。

 戦間期も駆逐艦が忘れられることはなかった。それどころか、何度か全面的な改修を経て、移動能力と火力とが格段に向上した。1926年7月13日、ノヴィークはロシアの主導的な革命家に因んでヤコフ・スヴェルドロフと改名された。

 大祖国戦争(1941年~1945年)が始まると、ソビエトの護衛艦隊を伴ったヤコフ・スヴェルドロフは、敵の艦船や潜水艦を仕留め、地上部隊に火力支援を行った。一時この駆逐艦はソビエト・バルチック艦隊の旗艦と見なされていた。

 ヤコフ・スヴェルドロフの運命の日は1941年8月28日だった。駆逐艦はタリンからの大規模は退避作戦に参加した。第十歩兵軍団の諸部隊を乗せた225隻の船が、ドイツ空軍とフィンランド空軍の激しい攻撃を受けながらクロンシュタットに向かっていた。ソビエト軍は60隻以上の艦船と8千人の人員を失った。

 この悲劇で沈没した艦船の一つがヤコフ・スヴェルドロフだった。駆逐艦は機雷に触れ、フィンランド湾のモフニ島近海に沈んだ。乗員114人が死亡した。

伝説の船の捜索

 何年もの間、伝説的な船の正確な沈没場所は分からなかった。ヤコフ・スヴェルドロフがついに見つかったのは、ロシアの歴史家ミハイル・イワノフ氏の努力の賜物だ。

 イワノフ氏はドイツの資料の中に、エストニアのユミンダ半島沖で1943年に潜水艦Sh-406を爆撃したという記述を発見した。だが、この潜水艦は実はそれ以前にボリショイ・チュテルス島の近くで撃沈されていた。ドイツ空軍のパイロットらがソビエト軍の潜水艦だと考えていたものは、実際は撃沈された駆逐艦ヤコフ・スヴェルドロフだったのだ。

 2018年6月16日、船が沈んでいる場所でロシアの研究チーム「偉大なる勝利の艦船に一礼」とフィンランドの研究チーム「サブ・ゾーン」との合同調査が行われ、ついに沈没船がヤコフ・スヴェルドロフであることが確認された。

 深さ75メートルのところに沈んでいた船体は機雷の爆発の威力で真っ二つに割れていた。船尾に船の名称「ヤコフ・スヴェルドロフ」とソビエト連邦の国章とがあるのを、ダイバーらが目視ではっきりと確認した。合同チームは今回見つかった何門かの102ミリ砲についても追加で調査を行った。船を詳しく調べるため、今後も潜水調査を重ねていくつもりだ。

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