一国の大統領が芸能業界のように「芸名」を使ったり、本当の名前が忘れられてしまっているというような状況は今では想像しがたいが、わずか半世紀前のソ連ではこれはごく普通のことであった。しかもそれは政府高官だけでなく、学者、俳優、監督、作家などの間でも広まっていた。新しい「ニックネーム」の理想的な基準となるのは、それがロシア的なものであるということであった。
下品な苗字を捨てる
ボリシェヴィキが政権に就くまで、本名を変えるというのはほとんど不可能なことであった。例外として認められたのは、特別な理由を持った貴族や正教を受容した外国人に対してのみで、その場合に限り、ロシア風の名前や苗字をつけることができた。
苗字はいくつかの規則に従って作られた。たとえば、洗礼名から(デニスからデニソフなど)、あだ名から(トゥーチヌィ=太いからトゥチコフ、コジョール=ヤギからコズロフなど)、職業から(マスレニコフ=油差工、クリュチニコフ=鍵番、スヴェチニコフ=蝋燭製造人など)、あるいは地理や地形からなどである。しかし、ソ連時代になり、それまでの一般的な法則が崩れた。そのきっかけの一つが、苗字を変えることが許可されたことであった。そしてその数年後の1924年、名前を変えることも許されるようになった。
改名の手続きは難しいものではなく、多くの人がこの機会を利用し、名前を変えた。公の場で働く有名な人々にとって、ときに改名は必要なことであった。たとえば、1979年にブルガリア初の宇宙飛行士ゲオルギー・カカロフは、その苗字を改名するまで宇宙への飛行が認められなかった(ロシア語でカカロフは下品な言葉(排便)を思わせるため)。そしてゲオルギー・イワノフとなって、宇宙へと旅立った。
しかし、このような手続きを取ることを必要とされたのは、品のない名前を持つ人だけに限らなかった。
「同胞」になる
苗字を変えたもっとも有名な指導者といえば、ヨシフ・スターリンであろう。グルジア人だったヨシフ・ジュガシヴィリは、1911年までに革命家たちの間で使われる30を超えるニックネームを持っていた。しかし中でももっともよく呼ばれていたのがコバという、ジョージアにとってシンボリックな名前であった。これは5世紀末に東グルジアを征服し、トビリシを1500年にわたって首都にしたペルシャ王コバデスのジョージアでの呼び方であった。ジュガシヴィリはもちろんこの歴史的経緯がとても気に入っていたのである。
しかしながらこのコボという呼び名はカフカス地方では使いやすく、理解されやすかったが、ジョージアの革命家の野望はカフカス地方の境界をはるかに超えるようになっていた。彼の影響力は「連邦」レベルに達し、ロシアの政党との関係も広がっていた。そこで新たな文化環境、新たな言語環境において、今度はロシア的な響きを持つ別の苗字が必要となったのである。スターリンというニックネームで初めて記名したのは1913年1月、「マルクス主義と民族問題」という著作を書き上げたときである。スターリンという名前を聞いて、まず頭に浮かぶのは、ロシア語のスターリ、つまり「鋼鉄」で、非常に好印象を残した(その新たな苗字が実際には何を意味したのかについてはこちらからどうぞ)。
一方、ソ連のユーリー・アンドローポフ書記長が苗字を変えたのには別の理由があった。
自身のルーツを隠す
ソ連共産党指導部の伝記学者らは、1982年から1984年にかけてソ連の指導者を務めたアンドローポフの本名はリーベルマンで、人生において彼は5回、苗字を変えたと書いている(アンドローポフのルーツに関する情報は極秘扱いとなっている)。父親のヴェルヴァ・リーベルマンはポーランドのユダヤ人で、アンドローポフというのは、2人目の義父の苗字だと言われている。
自身の民族的ルーツを隠そうとする動きは、ソ連の国家政策によるものであった。ソ連には128の民族が住んでいたが、主要な民族はロシア人だとされ、また第二次世界大戦後はそのことがさらに強調されることとなった。こうした新たな方針をとるきっかけとなったのは、スターリンが1945年5月24日にクレムリンのパーティーで行った乾杯の挨拶であった。そこでスターリンは、指導力としてのロシア民族の役割を指摘し、ロシア民族は、「ソ連邦を構成するあらゆる民族の中でもっとも優れたものだ」と述べたのである。
ソ連では、民族性(パスポートに記載されていた)は暗黙のうちに出世や社会、教育、科学のリソースへのアクセスに影響した。つまり、一定の成功を収めるためには、非ロシア的な苗字はその障壁となったのである。とりわけ、これはユダヤ人にとっては深刻であった。1948年にイスラエルが建国された後、ユダヤ人は親西欧的な方向性と愛国主義的な情熱を持っているとして、大きな不信感をもたれた(ソ連政府は、これを祖国ソ連に対する不忠を証明するものだと考えた)。
このコスモポリタニズムとの戦い(西欧的な傾向に反対する政治キャンペーン)は、文学、芸術から人道科学に至るあらゆる分野に浸透した。そこで、多くの芸術家や知的インテリたちも、改名をすることで、自身の状況を好転しようとした。そうした理由で改名した人々の中には、ソ連の軍司令官で海軍元帥のイワン・イサコフ(アルメニア人で本名はオヴァネス・テル=イサアキン)、ソ連の人民アーティスト、ファイナ・ラネフスカヤ(ユダヤ人で本名はファニ・フェルドマン)、レーニン賞受賞者の俳優、イノケンティ・スモクトゥノフスキー(シベリアに流刑されたポーランドのユダヤ人家庭に生まれた)などがいる。