ローラ・ピケンスはカリフォルニアに生まれ、カリフォルニアで過ごした幼年時代をとても大切に思っている。多くの隣人がいて、いつも皆と交流を図っていた。彼女が10歳の時、両親はサウスカロライナに引っ越したのだが、そこでの生活は孤独な森の中の生活のようで、まるで完全に孤立したかのようだったという。彼女は、楽しい仲間たちが一つの通りに集まり、友情を育み、助け合いながら生きる「セサミ・ストリート」のような暮らしをしたかったのである。
カリフォルニアで過ごした幼年時代
Personal archive数年後、彼女はロシア南方の都市、クラスノダールにある自分の家の中庭で、「セサミ・ストリート」を見つけることとなる。「祝日は皆で過ごし、水道が止められると皆で文句を言いに行く。カリフォルニアでも、こんな気持ちになったことはありませんでした。そして私はこれがとても気に入っているのです」とローラは言う。
今からほぼ1世紀前、ローラの先祖はドイツからアメリカへと移住した。そこで、彼女は小さいときから、自身の歴史的な故郷にいつか戻ることを夢見ていた。それが突然、ロシアに行きたくなったのだという。
「大学を卒業した後、グラフィックデザイナーになりました。それが突然、ロシアに行くと決めたんです。行くべき時が来て、今だ!行こう!と決心したのです。ロシアはエニグマのような、つまり謎の国でした」とローラは回想する。アメリカの学校ではソ連は敵だと教えられていた。しかし彼女はそれで逆に、一体何がそんなに恐ろしいのかと興味を持ったのだそうだ。「何かそんな話が信じられなくて、ロシアの謎を知りたいと思うようになったのです」。
若い頃のローラ・ピケンス
Personal archiveローラは1990年代にロシアとアメリカの関係が良好になりつつあったときのことを温かい気持ちで思い出す。全体的な発展の兆しがあり、競争もありつつ、友情も醸成される期待があった。「それは素晴らしい時代でした。現在、起こっていることを見ていると、私の心は痛みます。私にとって、アメリカは母のようなものであり、ロシアは父のようなものです。今の状況を、自分自身の悲しみのように感じています」。
ローラは13年前にクラスノダールに降り立った。「夏でした。私たちは草原を越え、農場を通り過ぎて移動しました。水の溜まった大きなくぼ地を覚えています。岸には50メートル毎に『水泳禁止』と書かれた看板が立っていました。そしてそのすべての看板の下で、人々が泳いでいました。看板と看板の間ではなく、看板の下です。そのとき、ああ、これがまさにロシアの心というものなのかと思ったのを覚えています」。
クラスノダールのガリーツキ公園
Legion Media彼女は、ロシアの人々はいつもどこかに急いでいて、たとえばバスを追いかけて、あるいは店が開くのに間に合うよう走っていると話す。しかし本人はこの13年間、皆のように走ったりするようになったわけではないという。「ゆっくり近づけば、扉が開かれるのです」。
ロシアでの生活は楽ではない。そして人々はさらに悪い状況に置かれるかもしれないと常に心の準備をしている。「また何かあったの?まあいいわ。もっともっと問題を持って来ればいい。いずれにしても、私はリラックスして生活するわ」。ローラは、これこそが、多くの人々が理解できないロシアの心なのだと考えている。
ローラはロック・パーティが開かれていたクラブで、結婚相手となるロック・ミュージシャンのヴィクトルと出会った。そして2014年、2人は結婚した。「その夜、夫はクラブでコンサートが予定されていたので、それを結婚パーティにすることにしたのです」。
ローラとヴィクトル
Personal archiveローラは、アメリカ人男性はより感情的だと話す。男性であっても泣いたりすることがあり、しかしそれで弱い人間だと思われることはないという。「ロシア人男性は男らしいですが、感情が溢れると、喧嘩をしたり、お酒を飲んだりします。しかし健康のためには、それよりも泣いた方がいいと思うんです」。
ローラとヴィクトルの結婚式
Personal archiveローラはその後2人の息子を授かり、クラスノダールの普通の病院で出産した。しかも無料であった。「アメリカだったら1万ドルほど払って、五つ星の病室に入ったでしょう。でも、そんな必要はあるでしょうか。私に必要なのは健康な赤ちゃん、それだけです」。
ローラは医師たちはとても親切で、注意深く接してくれたと話し、また同じ病室の女性たちに「それはあなたがアメリカ人だからよ」と言われたことを覚えている。「でも私はそうではないと思うんです。ただ私が彼らの言うことに耳を傾け、彼らの知識を尊敬していたからではないかと」。
ローラ、ヴィクトルと子どもたち
Personal archive息子のアレクサンドルとダニイルは英語とロシア語を自由に操る。家庭では英語、学校や家の周りではロシア語だ。
微笑みを絶やさない美しいアメリカ人女性を、ロシア人はマリリン・モンローと比較し、しょっちゅうお世辞を言うという。アメリカでは、そのような発言はかなり前からハラスメントと見做されるが、ローラはロシアではそうした問題はそれほど深刻なものではないと話す。
「女性が職場に、体型を強調するようなピタッとしたパンツを履いて行っても問題ありません。皆、彼女は自分の美しさを見せているのだと思うだけです。アメリカでは、そうした行為は自己顕示のシグナルととらえられてしまいます」。
しかし、ローラは別の問題に目を向ける。ローラは、家庭で、奴隷のように働いているロシア人女性が多いと感じている。たとえば、若い母親は頑固で、子どもたちにいつも「体によい」ご飯しか食べさせてはいけないと、ペリメニを手作りし、必ずスープを作っている。「簡単にサッと作れるものはすべて質が悪いと思っていて、子どもたちにそういうものを食べさせてはいけないと考えているのです。苦しくなるくらいに料理を作らなければならないのです」。
ローラの息子、ダニイルとサーシャ
Personal archiveローラはそうしたやり方には慣れないという。彼女にとって大切なのは、子どもたちが大嫌いなスープばかりでなく、いろいろなものを食べてくれること、そして母親が食事のために多くの時間を割かなくて済むということだそうだ。しかも彼女は週に5日、英語の家庭教師として働いていて、1日に7コマもの授業をしている。「なので、私には自家製ペリメニを作る時間なんてないんです」と笑う。
ローラは言う。ロシアでは多くの人がフェミニズムを正しく捉えておらず、フェミニズムとは男性を憎むことだと考えている。しかしフェミニズムとは、そうではなく、同等の権利、同等の機会、同等の賃金を求めることなのである。
英語の家庭教師としての仕事のほかにローラは、自分の子どもたちが学ぶ学校でボランティア活動をしている。ローラは言う。人生のもっとも重要な目的は人々を助けることだと。「私は本当に運命に恵まれています。ですからそのことに感謝し、恩返しがしたいのです」。
当初、彼女は父兄会には入りたくなかったのだそうだ。「私は馬鹿なアメリカ人で、何も知らないし、ロシア語もうまく話せないし、と思っていたのです。しかし、会合で全員一致の合意に達することができないのを見て、ここには私が必要だと思ったのです」。
ローラは子どもたちのためにチップスとそれに合うさまざまな国のソース作りの料理教室を開いた。
Personal archiveアメリカでは人とかかわる仕事をしていたという彼女。そこで困難な問題を平和的な方法で解決するというのは、彼女の天賦の才能だという。「会合に行って、私にはあなたの意見もあなたの意見も必要なんです。こうしてみませんかと言うようになりました。するとメンバーたちの言葉遣いが変わってきて、雰囲気も毒のないものになっていったのです。そして子どもたちも仲良く遊ぶようになりました」。
ときおりローラは、「あなたはもうアメリカ人というよりももはやロシア人ね」とよく言われるのだそうだ。彼女はすでに毎年、ロシアで夏にお湯が止まることにも慣れた。「もちろん、不便だけれど、子どもたちはバスタブに入れて、幼いときのように、水をかけて洗ってあげればいい。温かみがあって私は好きなんです」。
ローラはロシア料理も好きになり、ボルシチ、ソリャンカ、プロフの作り方も覚えた。「毛皮を着たニシン」サラダとオクローシカ(野菜いっぱいの冷製スープ)がとにかく大好きなのだそうだ。
しかしそれでも、ローラは、自分はアメリカ人だと感じているという。信じやすく、感情的で、オープンで、「声の大きな」アメリカ人だと。とはいえ、先のことをあまり深刻に悩むことはなくなり、ロシア人のおまじないである「すべてうまくいく」という言葉を真似るようになった。「この言葉はまるで魔法なの。この言葉で生きるのが楽になるのです。そういう意味では、ロシア人に似てきたかもしれません」。
ローラは、ロシア人というのは強くて、きちんとしていて、賢明だと考えている。「英語で、ストリート・スマートという言葉があるんです。それは学校では教えてもらえない知恵のことです。ロシア人は、自分の前にどのような人物がいて、その人から何を期待できるかということをとても素早く理解します。ですからロシア人を騙すのは難しいのです。アメリカ人を騙すのは簡単ですが」。
しかも、彼女によれば、ロシア人は閉鎖的で注意深く、いつも悪いことがあるかもしれないと疑心暗鬼になっているという。そこでローラは自分から声をかけ、誰にでも笑顔で接するようにしている。ある隣人には健康を気遣い、別の隣人にはいつ子供が生まれるのか尋ねるのである。
「ときどき、私のことを奇妙だとか馬鹿だと思う人もいますが、98%の場合、結果は良いものになります。私が誰かを助け、その人も誰かを助けます。そしてその善意はまた私のところに戻ってきます。ロシアのように、人々がとても注意深く、生活が苦しいところでは、この善意を与え合うということがとても必要だと思います。それが私たちすべてを支えてくれるのです」。
そして、彼女の素晴らしい「セサミ・ストリート」に住む人々は事実、声の大きな、微笑みを絶やさないアメリカ人女性に対し、温かい気持ちで、警戒心を解いて、接している。そして自分たちから、質問をしたり、助けを求めたりするのだという。「これが善意の連鎖の効果なんです」。ローラは喜びいっぱいでそう語った。
なお、このインタビューは、雑誌「ナーツィア」の「ロシアより愛を込めて」プロジェクトの枠内で行われ、ロシア語のオリジナルインタビューをロシア・ビヨンドが編集した。オリジナルはこちらからお読みいただけます。
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