ケメロヴォ、1986年
Aleksandr Polyakov/Sputnikロシアの最初の児童広場は、現代の広場とはまったく違ったものであった。第一に、最初の広場は小さな小屋とテーブルのある囲われた場所で、すべり台もなければ、ブランコもなかった。第二に、こうした場所は、貧しい家庭の子どもたちのために作られた。そして第三に、そこに行くには事前に予約をしなければならなかった。
これらはすべて、最初の広場というものは、慈善団体によるプロジェクトだったからである。都市では、このようにして、浮浪児や児童犯罪を管理しようとしたのである。というのも公園の主な機能は教育的なものであり、すべり台など必要なかったのである。空き地の真ん中にはテーブルと椅子、そして道具や遊具を入れておく小屋があっただけである。公園ではボランティアが勤務しており、彼らが風紀を守り、子どもたちの面倒を見ていた。
1. もう一つ、最初の広場は1年のうち、暖かい季節しか開いておらず、また貧しい人々が住む地区に建てられた。概して、これらは社会的弱者層のための幼稚園のようなものであった。
全ロシア農業博覧会の児童広場、1940年
Sergey Vasin/MAMM/MDF/russiainphoto.ru2. 革命後、広場の持つ意味が変わり、政治的な教育のために使われるようになった。遊び場の近くにはプロレタリアート、世界革命の勝利を歌ったスローガンあるいは神などいない、聖職者らはペテン師だなどという言葉が掲げられていた。またできるだけ多くの子どもを惹きつけるため、食べ物が配られていた。
ソコーリニキ公園、1940年
Sergey Vasin/MAMM/MDF/russiainphoto.ru3. 1931年、GTO基準(労働と防衛の準備=体育教育プログラム)が作られると、公園には鉄棒、吊り輪、バランス台(時には2層になったものまであった)などが置かれ、ジムの様相を呈していた。
公園、チェリャビンスク、1950〜1963年
South Urals State Historic Museum/russiainphoto.ru4. これらはすべて、ソ連の子どもがどのように育つべきかを反映したものであった。つまり、強くて、政治に関心があり、恐れを知らない者になるべきであった。
ゴーリキイ公園の遊び場、1958年
Vsevolod Tarasevich/MAMM/MDF/russiainphoto.ru5. ソ連全土で、メリーゴーラウンドやジェットコースター(それぞれのアトラクションには国家基準があった)、典型的なベンチ、塀などの設計例が掲載された本が出版された。広場は1年を通して開かれるようになり、貧しい地区だけでなく、学校や公園にも作られるようになった。そして子どもの世話をする保育士の数は次第に少なくなっていった。
ナーベレジヌイェ・チェルヌイ、1973年
Boris Kavashkin/Sputnik6. 第二次世界大戦後、広場のデザインには民族的モチーフが用いられるようになった。雄鳥の形をしたブランコや木彫りの人形や寓話の登場人物の絵などが取り入れられるようになった。
バルナウル、1979年。古代ロシア要塞風の遊び場。
Viktor Sadchikov/TASS7. 社会主義リアリズムの発展とともに、金属でできた動物や抽象的な装飾が現れ、またそうした装飾は、ときに高さ数メートルに達する大型のものもあった。
ヴォロネジ、1975年
Valery Shustov/Sputnik8. 冷戦と宇宙開発の時代には、抽象的なデザインに加えて、ロケットや宇宙船といったモチーフが多用されるようになった。ソ連の子どもなら誰でも、ユーリー・ガガーリンやワレンチナ・テレシコワが誰なのかを知っていた。
ノリリスクの遊び場、1965年
Vsevolod Tarasevich/MAMM/MDF/russiainphoto.ru9. 概して、児童広場の設計は集団的な創作とされており、具体的に誰が作ったのかを特定するのは困難なことであった。また決まった形の典型住宅が大量に建設されるようになると、それは不可能なこととなった。つまり同じような小地区がどんどん作られるようになると、広場も同じように増えた。そうなると、広場の設計は建築家ではなく、小地区の住宅管理事務所が行うようになり、彼らはできるだけシンプルなものを目指したため、その外観はほとんど変わらないものになっていった。
ハバロフスク、1978年
Igor Zotin, Boris Kavashkin/TASS10. 1990年代、ソ連崩壊後の10年は新たな児童広場はほとんど作られなかった。子どもたちは、ソ連後期に作られた広場を使用していた。経済状況が悪かったことから多くの広場は劣化し、老朽化した。1990年代、2000年代初めの典型的な児童広場と言って思い浮かぶ図とは、灰色のフルシチョフカ住宅を背景にした腐りかけたすべり台とキィキィと音を立てるブランコである。
11. 大きな変化が起きたのは2000年代の後半。大々的な住宅建設が進み、典型的な広場の外観にも影響を与えた。ロシア中の大きな都市に、防水合板で作られた現代的な児童広場が登場した。また青、黄、赤、緑といった色が特徴的に使われるようになった。しかし、公園はロシアの独占企業によって作られていたため、構造はすべて標準化されていた。
ブラゴヴェシチェンスク、1989年
Semen Maisterman/TASSこのような広場は、周囲の環境の特徴などまったく考慮に入れられておらず、瞬く間に老朽化した。それでも、ソ連晩年に作られたものに比べるとはるかに快適ではるかに安全であった。ソ連の広場の安全については、大々的なミームになっている。
12. 国内市場にさまざまな企業が入ってきたことにより、遊び場の多様性や質にも影響が現れるようになった。新たなマンションの建設に際しては、オリジナルの児童広場があることは、居住者を呼び込む大きなメリットの一つとなった。広場の設計はプロの専門家、設計事務所が行うようになった。
全ロシア博覧センターの児童広場
Aleksandr Avilov/Moskva Agency13. 最近の広場の中には、いくつものすべり台やトランポリン、障害物コースや塔などが備わっており、小さな町のようになっているものもある。
ゴーリキイ公園の児童広場「サリュート」
Anton Novoderyozhkin/TASSロシア・ビヨンドのニュースレター
の配信を申し込む
今週のベストストーリーを直接受信します。